続・晴耕雨読

東北在住のへっぽこ医師ばんじょーの日々思っていることをつづったブログです。週2回くらいの更新を目指しています。スパムコメント対策のため、 コメント時に画像認証をお願いしております。お手数ですがご了承ください。

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マンガを文化人類学的に考察する~『闘将!!拉麺男』とギリシャ神話~その2

さて、筋肉拳蛮暴狼の話を聞いて、ギリシャ神話のアキレスの物語を思い出した方がいるのではないだろうか。
どんな話かというと、彼の母親である海の女神テティスが、人間であるペレウスと結婚してアキレスを産んだ。しかし、神と人間との間に産まれた子は寿命があるため、子の不死を願うテティスは、体を浸すと無敵になると言われる冥界の河ステュクスに、赤子であったアキレスの踵をつかんで全身を浸した。その結果、河の水がついた部分はどんな攻撃も弾き返してしまうようになったのだが、踵の部分(つまりアキレス腱)だけが水についてなかったため、トロイア対ギリシャの戦争に参戦している際に、そこを攻撃されて死んでしまう、というのが大まかな内容である。

ちなみに、母親が赤子の踵を持って河に浸したってことは、子供を逆さにして河にじゃぶじゃぶ浸けたってことになるんだろうね。想像すると子どもにとって気の毒なシーンなんじゃないかと思うんだけど、文化人類学者レヴィ=ストロース曰く、神話の世界では逆子っていうのは、通常ではありえない誕生の仕方であるということから、英雄とか姦雄の誕生の先触れとして語られることがあるそうである。なので、アキレスの話でも逆子の状態で河に浸した結果無敵のアキレスが誕生した、という話の流れである可能性もあるよね。

結局、いくら神に近づこうとしたところで、アキレスはやはり人間であるため死んでしまう。人間の不完全性や有限性を示しているのではないかと思うんですよ(同時にアダムとイブが知恵の実を食べることで死ぬ定めを負ったように、人間が神世の時代に戻ることが出来ないという不可逆性を暗示しているのかもしれない)。不死でない以上、人間が神の真似をしてうかつに敵陣のど真ん中につっこんではいけない。他人を守ったり、守られたりしないと死んでしまう。そういう人間関係を作るには、他人に認められなければならない、すなわち人間としてのルールを守らなければならないだろう。じゃあ人間としてのルールってなんだろう?

その1つとして、自分と異なる他人を極端に遠ざけたり、自分と似たような人間だけで極端に固まったりしないこと、というのが挙げられると思う。

レヴィ=ストロースは著書『構造人類学』の「神話と構造」の章で、オイディプス王の神話を参照しながら、以下のようなことを述べている。自分の同朋を殺すほどに親族同士の結びつきが弱い集団と、近親相姦を行ったり自分の同朋に見境なく手をだすほどに親族同士の結びつきが強い集団は生き残ることが出来ないのではないか、と。ちなみにこれら2つの集団は人間集団の規範の限界を表しており、その2者の間に位置する集団、すなわち親族同士の結びつきが弱すぎもせず、強すぎもしない集団がこの世界で生き延びることが出来るのではないか、と内田先生は『現代思想のパフォーマンス』の中で述べている。

複雑ネットワークという考え方が近年盛んになってきている(と思う)。そこでも「ホモフィリー」と呼ばれる同朋同士の結びつきが強いコミュニティについて分析がなされており、実際の社会において、極端なホモフィリーは存在しにくいと考えられているようである(『「複雑ネットワーク」とは何か』増田直起、今野紀雄著)。大昔の物語である神話と近年の理論である複雑ネットワークに共通点を見いだせるというのは、コミュニティの存続という問題が、時代を問わず人間の興味をひくものであるからかも知れない。


なお、オイディプス王の物語は、オイディプス王は父親を殺し(同朋殺害)、母親と姦通した(近親相姦)という話であるが、オイディプスが祖国に戻り母との姦通という悲劇を引き起こす前に、彼はスフィンクスと出会っている(父親はスフィンクスと出会う前にそうとは知らず殺害してしまってたはず)。実はスフィンクスの話って、オイディプス王の神話の一場面なんですよね。

スフィンクスは「朝は4本足で、昼は2本足、夜は3本足であるものは何だ?」という謎をかける。オイディプスはその謎に答え(答えは「人間」)、スフィンクスは面目を失い自殺(多分)する。もしこの謎に答えなければ、オイディプスはスフィンクスに喰われるものの、祖国に戻って悲劇を生むことはなかっただろう。
レヴィ=ストロースは、謎というのは問いと答えと結びつかないから謎なのだ、と言っている。その謎を、問いと答えを結びつけてしまったばっかりに、結びつけてはいけない母と息子の関係も結びつけてしまうことにつながったと考えると、スフィンクスの挿話は興味深い話に聞こえるのではないかと思う。

  1. 2007/08/12(日) 03:28:48|
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マンガを文化人類学的に考察する~『闘将!!拉麺男』とギリシャ神話~その1

ばんじょーです、お久しぶりです、こんにちは。

先日恩師コウイチさんのお宅にお邪魔させてもらいました。遅ればせながら、コウイチさん、先日はありがとうございました。夏カレー、大変おいしかったです。遠藤さん、米っちさんへ、楽しい時間が過ごせました。これからもよろしくお願いいたします(って、僕があまりFTEXTに参加できてないんですが…、すみませんです)。

って、大変プライベートな話題から始まってごめんなさい。
さて、食事の際にコウイチさんから「マンガにおけるありえない技を検証する」というブログのエントリーをいただいたので、ここで1つ、ゆでたまごのマンガ『闘将!!拉麺男(たたかえ!!ラーメンマン)』について書いてみようと思う。

今回はかなりマニアックなブログ(っていつものことか)になりますが、皆さん見限らないで下さい(弱気)。

ご存じない方のために、簡単な導入から。『闘将!!拉麺男』は、同じくゆでたまご作の『キン肉マン』に登場するラーメンマンを主人公にして描かれたマンガである。『キン肉マン』中の登場人物であるラーメンマンに人気が出てきたため、独立させて、まったく別の世界観のマンガを創ったということであるらしい(Wikipediaより)。

で、『闘将!!拉麺男』は、おそらく中国の話だと思われるんだけど。幼少時代に毒蛇(コブラ)党に家族を殺された拉麺男が、嵩山少林寺の師範陳老師と出会い、彼に12年間師事して超人拳法を学ぶ。そして、(多分)継承者のみに持つことを許された闘龍極意書を師匠から譲り受けた拉麺男は、毒蛇(コブラ)党を倒し、中国にはびこる悪人を退治すべく、弟子のシューマイと旅をする、というストーリーである(ちなみに毒蛇(コブラ)党は1話目に拉麺男によって全滅させられている)。

っていうか、めちゃめちゃ漢字変換しにくい単語ばっかりだなぁ…。ちなみに!拉麺男の正式名(?)は美来斗利偉・拉麺男(ビクトリー・ラーメンマン)だそうです。…ゆでたまごのマンガは基本つっこみ所満載すぎなので、これからも大半のことはスルーして話を進めて行きたいと思います。

ちなみに、画像の質が悪いのは著作権に配慮しているためで、決して取り込みが雑だったからではありません、念のため(ウソです、ごめんなさい)。

で、今回は『闘将!!拉麺男』2巻に登場する筋肉拳蛮暴狼(きんにくけんばんぼろ)の話である。

11.jpg

こんなんです、蛮暴狼。

拉麺男の幼なじみであるザーサイは、幼少時に自分を裏切った(とザーサイ本人は思っている)拉麺男に復讐すべく、ひたすら筋肉を鍛え、拉麺男の技をすべてはじき返すほどに強固な肉体を得ていた。

22.jpg

21.jpg


戦いに突入し、拉麺男の技はことごとくはね返されてしまう。

跳ね返す


14.jpg


そして蛮暴狼のベアハッグの前にあわや拉麺男は失神寸前…、というところで、拉麺男は蛮暴狼の背中に1枚の葉っぱがくっついているのを発見する。
「おお、なんという自然のいたずらの皮肉なことか…この完璧な筋肉拳法が、こんな一枚の枯葉のためにやぶれてしまうとは…」
なんと、拉麺男とザーサイが最後に別れた日に背中にくっついた1枚の落ち葉が、この日までくっついていたのである。そして、枯葉が張り付いていた部分だけ筋肉(皮膚?)を鍛えきれていなかったのだ。

15.jpg


枯れ葉


「私はあえて鬼になる!!」
拉麺男はベアハッグを脱出し、背中の枯葉をはがす(何故?)。

はがす


そしてそこに必殺拳「命奪刺葉拳」を打ち込むと、今まで弾き返されていた拉麺男の拳が蛮暴狼の背中に刺さるではないか。拉麺男の手刀は蛮暴狼の左背面から刺入し、胸骨上部(胸骨柄部)を貫通したのであった。

貫通


「さ…さすがラーメンマン、あの日のオレの目にくるいはなかった…」
落ち葉舞う空の下、拉麺男は蛮暴狼の亡骸を前に彼との思い出に浸るのであった。

23.jpg



…うん、いい話なんだけどね…。とりあえず、もうどこから突っ込んでよいやら…。
なんで1枚の葉っぱで筋肉とか皮膚が鍛えられないんだよ、とか、肋骨や胸骨まで貫通できる手刀を跳ね返す筋肉なんてあるのかよ、とか、そもそもどんだけ長い間葉っぱがくっついてたんだよ、とかね。
無理矢理つじつまを合わせるとすれば、筋肉拳の要諦は筋肉の強さよりも皮膚の硬さにあって、蛮暴狼の背中についた葉っぱがものすごい厚いものだったため、外表からの刺激に(滝に打たれるとか、熱砂に横たわるとか)よる皮膚の硬化訓練に対してその効果を半減させうるものであった、ということなのかもしれない(だから拉麺男も葉っぱをわざわざはがしたんだね☆)。ということは、筋肉拳ならぬ表皮拳蛮暴狼と改名した方が実情に即しているのかもね、って思ったりする。

ちなみに、いくらなんでも蛮暴狼を殺すことはないだろう、って思った方もいるかもしれないけど、蛮暴狼は「あの地獄の殺人者として中国全土にその名を知らぬ者はないという(by拉麺男)」ほどの悪人らしいので、このマンガの世界では許容された殺人であるようです。

殺人者


それにしても、幼なじみが久々に会ったら地獄の殺人鬼とは…。

今回の話しかり、『闘将!!拉麺男』は納得いかない箇所がそこかしこに見られるマンガである。そもそもゆでたまごのマンガは、基本的に物理法則やら生物学的理論に則っていないことが頻繁にあるのだが、それでも一定数の読者が存在して、世間に受け入れられている(と僕は思っている)のは、科学的に納得できるかどうかというよりも、人間の深層心理に訴えかけるような物語だからなんじゃないかと思う。神話とか民話が人口に膾炙するのと同じようなものかも知れないな、と思うのである。

  1. 2007/08/12(日) 03:27:35|
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飲み会には危険がいっぱい~コンテクスト・マーカーになってしまった私~

駅前の本屋で『四国はどこまで入れ換え可能か』(佐藤雅彦著)を立ち読みする。オーストラリアを縮小して四国の位置におけば思ったより違和感がないことを知りました。んなわけないだろって思うでしょ、いや、案外いけるんですよこれが。
まぁ、そんなことはいいとして。


先日、選択授業の関係で、ある医局の懇親会に参加させていただいた。先生方、ごちそうさまでした。
宴が進むにつれ先生方5~6人と学生2人、教授と学生6人の輪が出来た。僕は前者の方にしばらく所属していたのだが、先生方の息もつかせぬオヤジギャグに膨満感を覚えたのと、教授と目が合ったこともあり、教授卓に移ることにした。「マカオのオカマ」って回文は面白いと思ったけど、さすがにそういうネタばっかりだとね~。

でも、フロンティア開拓もなかなか上手くいかないもので。

席を移ったとたんに、教授が「今度別に飲み会をやろうと思うんだけど、お前たち、参加しないか?」と僕に話を振ってきたので、いいとも悪いとも言いかねて「それはいつどこで開くんですか?」って聞き返したら、とたんに具体的な話に移って、おかげでそこにいるクラスメートが参加しなければならない流れになってしまった(後日先生にしっかりメルアドを抑えられました)。そして、クラスメートの間に流れる白けた空気。

しまった~!場の流れを読みそこなったか~!

 普段だったら飲み会に誘っていただけるのは嬉しい話なのだが、1月に大きな試験を控えているため(1月だったら先の話だと思うでしょ。でも、あまりに範囲が膨大なため、今の時期ですら時間に余裕がないのです)、できれば飲み会は避けたいと学生はみんな思っていたところだったのだ。

 で、話の流れから推測するに、おそらく、僕が席に来る前にも何度か教授から飲み会の誘いがあったのを、他のクラスメートたちはのらりくらりとかわしていたのだろう。それを、僕が具体的な話を促したせいで現実の話になってしまったのだ。

 席を移ったばかりで場の空気を読むのって難しいと思うんだけど、それでも無難な返事として「ほかの人は参加するんですか?」って他の人に話を振るべきだったんだろうなぁ、あの場合。

 グレゴリー・ベイトソンはコンテクスト(文脈)が変化するターニングポイントとして、コンテクスト・マーカーという概念を考え出した(『精神の生態学』G・ベイトソン著)。
ベイトソンはこんなたとえを出している。リング上に2人のボクサーが上がっているとき、ゴングが鳴る前に殴り合ったら警察沙汰になるのに対して、ゴングが鳴った後だと殴り合いは競技として見られる。これはゴングの音がコンテクスト・マーカーとなって、殴り合いが犯罪であるというコンテクストと競技というコンテクストの分水嶺になったことを示すものなんだ、と。

この例に従うと、僕の言葉は、教授の飲み会のお誘いが社交辞令というコンテクストから本気のお誘いというコンテクストへ変化することの引き金になってしまったと思われる。あぁ、やっちまった…。みんな、ごめんよ。

とりあえず、いくら酒を飲んでるとしても、お偉い様方の前では具体的な話に発展しそうな発言は慎もうと思った飲み会でした。ほんと、幾つになっても日々是反省です。

今日の一言:伝染性軟属腫(通称みずいぼ)はPox virusによって生じる。
覚え方→みずいぽっくす。
  1. 2006/12/10(日) 02:10:08|
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バービー人形的フェミニズムの衰退とエビちゃん的人生モデルの台頭(若干修正しました)

えっと、期末試験の勉強に追われて著しくQOL(Quality of life:生活の質)が低下しているばんじょーです。こんばんは。

先日の外科学の授業で、S先生が「諸刃の矢」という言葉を連呼していたんだけど、先生、諸刃の矢ではそもそも撃てないと思います…。

諸刃の矢


「諸刃の剣」と言いたかったことを分かっていながら、ちょっと揚げ足取ってみました、ごめんなさい。


さて本題。

先日英語サークルの活動で、外国人とのセッションに参加してきた。最初はニュージーランドからの来られたRさんの講演で、お題は「バービー人形の歴史」。
バービー人形とは普段接点を持つことがないだけに、非常に興味深く彼女のお話をうかがう。

全世界で今までに製造されたバービー人形をつなげれば地球を7週半するとか、プレミアがついている人形はウン十万するという話を聞いていると、バービー好きの方って世界中にたくさんいるんだろうなと思ってしまう。そういえば彼女自身がバービー人形みたいな髪型や服装をしていたところをみると、かなりのバービー好きなんだろうなぁ。

でも、特に面白いなと思ったのは、その魅力についての話である。バービー人形って、お姫様からハンバーガーショップの店員から宇宙飛行士から果ては兵士まで、あらゆる職業のバージョンが販売されてきているそうなんだけど、ただ可愛くスタイルがいいだけでなく、何にでもなれる能力を備えているところにバービーの魅力があるんだそうだ。

ふ~む、ってことはバービー人形はフェミニズムを具現化しているってことなんだろうか。女性は兵士にも宇宙飛行士にもなれる能力があり、社会において男性と同様の職業選択の権利を持つという主張を暗に含んでいたのかもしれないね。

さて、今しがた「いたのかも」と過去形で書いたのは、近年の社会情勢から、フェミニズムの気運が消退しつつあるように見えるからである。現在ではエビちゃんのような「男が守ってあげたいと思うようなキレイで可愛い女の子」が理想の女性像(もしかして今は違うのかな?)だそうだけど(ウチダ先生のブログより)、ほんの数年前は江角マキコのような自立した女性(本人が本当に自立しているかは別として)が理想像だったように思うんですよ。

そういえば「30代、未婚、子供なし」は負け犬だって話も一時期話題に上ってたし(杉田かおるの騒動は記憶に新しい)、僕の周囲でも結婚願望を持つ女性が増えている気がする。

このことは、「女性は家庭に縛られず、仕事でキャリアを築いて男性に負けずバリバリ働くことが幸せにつながる」というようなフェミニズム観が衰退しつつあることを示しているのだろうか?「主婦となって、男性の庇護に入りたい」という、自立へのあきらめが表れているのだろうか?

僕はそうは思わない。

むしろ、フェミニズムの浸透によって女性が社会で仕事をするという思想的土壌はある程度確保できているから、仕事と恋愛(そして結婚)を両立させる道を模索している過程なんじゃないんだろうかと思うのである。

っていうか、エビちゃんだってきれカワイイ振りしてるけど、現実はめちゃくちゃお金稼いでて(少なくとも僕よりは)、かなりの仕事量をこなしているバリバリのキャリアウーマン(って言葉をモデルに当てはめていいのか分からないけど)なんじゃないかと思うんだよね。みんな、エビちゃんはか弱い女性じゃないからね(多分)、外見に騙されちゃだめだよ~!(エビちゃんファンの方、ごめんなさい)
そう考えると、エビちゃんの可愛さが「男性に媚びない可愛さ」であるという評価も納得がいく気がするなぁ(でも守ってあげたい的な男心をくすぐる可愛さでもあるらしい…不思議だ)。

話を戻して、もしこの仮定が当たっているのなら、女性の志向が、家庭か仕事かの二者択一ではなく、仕事を持って社会的に自立した上で結婚して子供を産むというのが当たり前という方向にシフトしているように思うのである。

ならば、その結婚相手としての男に求められていることってなんだろう?それはおそらく「満足できる結婚生活を与えてくれて、かつ家事や子育てをある程度引き受けて、妻が仕事に復帰することを容認する」ことなんじゃないかと思うのである。そうでなければ、男に待っているのは三行半を突きつけられるという展開であろう。だって、たとえ子持ちでも女性が仕事に復帰する土壌は昔に比べればある程度整ってきてると思うし、苦痛な結婚を続けるという選択肢をいやいや選ぶ時代じゃなくなってると思うからね。

そう考えると、バービー的フェミニズムが消退しつつある(ように見える)ことおよびエビちゃん的カワイイ系の台頭は男性にとって全然福音ではなく、むしろ男性の能力を試されているんじゃないかと思うわけなのである。でも、過保護に育てられた男の子が増えている(ように思われる)中、そんな精神的かつ社会的に成熟した男って、どれだけ世の中にいるのであろうか。


ということで、これからのバービー人形の売れ筋は「バリバリのキャリアウーマンだけど夫も子供もいて幸せな家庭を築いている」シリーズ(どんなだよ!?)になると思います。…ほんとかよ?
  1. 2006/10/13(金) 02:13:34|
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男集団のエクリチュール

先日の夜8時の時点でのクラスメートの会話。発表用の資料が出来上がって、印刷した後で、こんなやり取りがあった。

「みんな、今作った資料、明日までに100回は目を通して来よう!」
「ひゃ、ひゃ、ひゃ、ひゃ、百回?」

いや~、ベタな会話だなぁ。横で聞いてて思わずニヤニヤしちゃったんだけど、このやりとりをした2人もそのベタっぷりに笑ってたのが面白かった。



さて、本題。

最近(という訳でもないけど)新しい教室で授業を受けるようになり、それに伴って座席の配置が以前とは違うものになった。以前の座席では周りのクラスメートは男女混じっていたので、女性とも時折話すことがあったが、教室が変わってからは、周囲は全て男になったので、休み時間などに女性と話す機会がめっきり少なくなってしまった。

別にそれはそれで気楽でいいのだけど、最近、たまに女性のクラスメートと話をする時にちょっとしたぎこちなさを感じるようになった。教室が変わってから1ヶ月も経たないのに、である。

そんな短期間で人間関係がぎこちなくなるものなの、って思うかもしれない。でも、人がある種の集団の中で人間関係を築くための適切な言葉遣いを学習した結果、他の集団に属する人間とのコミュニケーションがうまくいかなくなることってあると僕は思うのだ。

例えば、今まで真面目で「うん、お母さんをがっかりさせたくないから勉強頑張るよ」なんて母親の言うことを素直に聞いていた男の子が(そんな子が今どきいるのか分からないけど)、高校デビューしてちょいワルの友達と付き合うようになって「いちいち口出しすんなよ、ババァ」なんて言うようになったとする。母親はびっくりして、以降息子と話すときは、おそるおそる、距離を置いて話すようになるかもしれない。

このことは、彼は「ちょいワルの友達」という集団に馴染むための適切な言葉遣いを学んだ結果、優しい言葉遣いが望まれる集団である「家庭」と少し距離が離れてしまったと言えるんじゃないかと思う。

社会に存在する集団は、それぞれ「正しいことばの使い方」として集団的に承認した語法を持つという。そして、集団はそれらの語法を用いるよう集団の成員に陰に陽に要求する。そのようなことばの使い方を、思想家ロラン・バルトは「エクリチュール」と呼んだ(『現代思想のパフォーマンス』難波江和英・内田樹著より)。

ということで、男だけの集団には男集団のエクリチュールがある。どういうことかと言うと、男集団の中ではある種の乱暴なコミュニケーションが適切であり、女性が持つような相手を多く気遣うようなコミュニケーションを使う人間は“テンポが異なる”ものとして集団から敬遠されるのではないかと言うことである。例えば、「お前、頭悪すぎるよ、って今言ったけど冗談だからね、本気にしないでね」って言ったら、男同士だったら冗長すぎて鬱陶しいと思われるだろう。男同士だったら「お前、頭悪すぎるよ、ぎゃはは」だけで十分なのだ。

ちなみに、エクリチュールは、言葉だけでなく、身体運用や振舞いなどといった個人の行動全般についても、彼の所属する社会集団における規範的なふるまい方に従うことを要求するという。僕が女性と話すときにぎこちなさを感じるのも、男集団が求める「女性とは一定の距離を置いて話すべし」という規範(そういう規範が本当にあるのか分からないけど)に無意識に従うようになってきているのかも知れないな、と思う。男集団の中の1人が、好きな女性が出来たけど照れくさくて話しかけられない、って親しい男友達に相談して、周りの男友達が頑張ってその照れ屋の男をバックアップしていく、って話はよくありそうじゃないですか。彼がそういう振舞いをするのは、本人の性格もあるけど、その男集団が彼に照れ屋であることを求めてるっていう面があると言えるのではないだろうか。


で、なんでこんな話を書いたかというと、先日女友達から焼き芋のお菓子をもらったときに、こんな会話をしてしまったからである。

「これ、食べてみてよ」
「あっ、この芋菓子、本当に買ったんだ。ありがとう、どれどれ…(袋から1つ取り出してみる)。この色形、あれに似てるなぁ。う~ん、何に似てるか言ってもいい?」
「えっ?」
「(返答を待たずに)寄生虫のウェステルマン肺吸虫に似てるよ」
「…(無言)」

いや、芋菓子の購入を勧めた僕が言う言葉じゃないよね…。ほんとすみません。いやね、これは僕が悪いわけではなく、男集団のエクリチュールが僕にある種の振舞いを要求した結果なんですよ。そんな言い訳がましい上に人のせいにするという、男の風上にもおけない僕であった。

  1. 2006/09/29(金) 02:20:26|
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