冬休みがもう少しで終わってしまうことを想像するだけで心拍数が上がるばんじょーです、こんばんは。妄想の中に逃げ込めば、多少は心拍数が下がることを発見し、少し救われた気分になっています(←でもなんの解決にもなってない)。
さて、ウチダ先生の1/5のブログ『恐怖のシンクロニシティ』に、空気を読むことについて書かれている。その中で、ウチダ先生が巡回されているブログ数カ所でも、空気を読むことについて言及していた、とおっしゃっているが、年末の読売か日経新聞のコラムでもKYの話題を扱っていたし(まさかブログに書くことになるとは思わず、捨ててしまってました。無念…)、最近はKY論がホットになってきているのかも知れない。ちなみに僕も12/22、12/25、1/4のブログで空気について書いています。諸先生方には及ばずとも、僕までKYの話題に触れてしまったのは、もしかすると、「KYについて議論しよう」という雰囲気が世間で生まれているのかも知れない。
まぁ、年末からのクリスマスや忘年会ラッシュ、そして新年会と、空気を読むことについて考えさせられる機会が多い時期だからなのかも知れませんが。
ウチダ先生、およびウチダ先生がブログ内で取り上げられているKY論を読んで思ったのは、場の空気というのは、その場のルールみたいなものであるが、ルールとして言葉にするのは難しいものだということである。う〜む、含蓄深い。だから空気を読んでない人に場の空気について説明するのは難しいし、そもそも自分の空気に対する読みに自信を持つのも難しいし。KYというのは、空気が読めない人間を排除するような響きを持つように感じる、とウチダ先生のブログで言及されている(正確にはウチダ先生のブログ内での『Sho's bar』の引用です。ややこしくてすみません)が、読めない空気だからこそ、読めない人間を排除するという具体的行為を行うことで、そこに空気があることを実感できるのかも知れないな、と思ったりする。
別にKYを場から排除しよう、って考えを持っている訳ではないですので、誤解しないでくださいね。KYを逆に場に取り込む空気をいかにして生成することが出来るか、というのが最近の関心ごとです。とりあえずの対応策として、僕は空気が読めない場では、僕は壁と一体化して微笑むようにしています。アルカイックスマイル。
ところで先日、海外では怪しげな漢字をタトゥーに入れるのが流行ってるね、という話をした。その時僕が思い出したのは、「二角形」というロゴがでかでかとプリントされたTシャツであった。見たのはもうかなり昔だけど、未だに記憶に残っています。二角形…。

