今回の話題は単なる備忘録です。あくまで個人的な覚え書きであることをお断りしておきます。
フロイトは『快楽彼岸の原則(フロイト著作集 第6巻 自我論・不安本能論)』で、「反復強迫」について述べている。これは犯罪者が同じような犯行を何度も繰り返してしまうように、だめんずうぉ〜か〜が同じようなダメ男に何回もひっかかってしまうように、特定の行動を病的に繰り返してしまうことを指している(と思われる)。
病的であるにも関わらずなんで反復するかっていうと、繰り返すことでその事象をコントロールして自分の支配下に置けるという点に利得を見出してるからである。展開が分かってて観ても目新しいことはないであろうにも関わらず、水戸黄門を観続けてしまう感覚と同じなのかもしれない(っていうとファンに申し訳ないけど)。そこからフロイトは、反復強迫とは、見方を変えれば以前の状態を回復することと同じなんじゃないか(同一性の再発見)という発想に至り、そういう物事の繰り返しこそが人間の快楽を生み出すんじゃないか、と指摘したのである。
フロイトはそこからさらに、人間は原初の状態への復帰、つまり無生物状態=死に戻ることを本能的に望んでいるんじゃないか、という考えを展開している。これが「死の本能」と呼ばれる考えなんだけど、「有機体は、それぞれの流儀にしたがって死ぬことを望み…(同書p174)」というくだりを見るに、死それ自体への回帰より、死に方をコントロールすることに快楽を覚えるとも読み取れるところをみると、フロイトも「死の本能」という発想を公表するのに躊躇を覚えたのかな、と思ったりもする。
さて、これらのフロイトの指摘は興味深い。というのも、同一物への回帰っていう発想は、あるインプットに対して特定のアウトプットが安定して返ってくる環境を構築することに通じるという点で、システム論に通じると思われるからである。自己組織化した有機体(システム)は安定したシステムを作り、変化に対して抵抗性を示す(J・ヘイリーは『家族療法の秘訣』p225で、安定した人間関係において、こちらが変化を促すコミュニケーションを行うと、相手はそれを減少させるようにレスポンスするという指摘を行っているが、このことも人間関係システムの安定性を示唆している。ちなみに、家族療法とコミュニケーション理論は、システム論の影響を強く受けています。あまり知られていないかもしれませんが…)。
フロイトの指摘はシステム論に通じるようで興味深いが、生物の安定性への希求と「死の本能」を同一の思考でとらえるのは難しいかもしれない。というのも、安定したシステムというのは動的平衡システム、つまり散逸構造であり、巨視的視点では変化していないが、境界上で微小変化が絶えず生じているという構造である。一方、フロイト的な「死」はあくまで静的平衡システムだと思われる。その2点を分かつのは、外部エントロピーを生体内に取り入れて自分の境界内のエントロピーを減少させる機構の有無だと思うんだけど、ここでは詳しくは論じない。
ということで、フロイトは死というものを究極の安定として捉えているふしがあるが、生物の安定というものと死は異なる種類の安定なんじゃないか、というのが今回の備忘録の趣旨である。
ちなみに、「臨床心理学」という雑誌で、あまりに不幸な人生を歩みすぎてしまったため、自分の思いどおりにできることが自分の命を絶つことだけになってしまった(と思われる)患者さんの話が書いてあった。フロイトの指摘を思い起こさせる記事であった。
自殺願望のある患者さんは、もしかすると、自分の思いどおりにできることが自分の命を絶つことだけだという思考に陥ってしまっているのかも知れないと思ったりする。
先日テレビで、富士の樹海前で自殺志望者を引き止めるという特集を行っていたが、テレビ局のリポーターが「自殺しちゃダメですよ、飲もうとした薬は僕が預かります、絶対これから自殺しないって僕に誓ってください」なんて、見ず知らずの自殺志望者に命令口調で説教していたのを観て、ちょっとこれは、って思ってしまった。上から目線で話しかけてること自体に悪印象を持ったし、何より、本人が「死ぬこと」しか自分の思いどおりに出来ることがないと思っているとしたら、それすらも否定された人間はどうなってしまうんだろうと思うのである。まぁ、番組では結果オーライだったみたいだから、よかったのかも知れないけど。
もちろん、自殺しようとしている人間は止めるべきだと思うけど、その止め方は非常に気を遣うポイントなんじゃないかな、と思ったのである。

