先日の夜8時の時点でのクラスメートの会話。発表用の資料が出来上がって、印刷した後で、こんなやり取りがあった。
「みんな、今作った資料、明日までに100回は目を通して来よう!」
「ひゃ、ひゃ、ひゃ、ひゃ、百回?」
いや〜、ベタな会話だなぁ。横で聞いてて思わずニヤニヤしちゃったんだけど、このやりとりをした2人もそのベタっぷりに笑ってたのが面白かった。
さて、本題。
最近(という訳でもないけど)新しい教室で授業を受けるようになり、それに伴って座席の配置が以前とは違うものになった。以前の座席では周りのクラスメートは男女混じっていたので、女性とも時折話すことがあったが、教室が変わってからは、周囲は全て男になったので、休み時間などに女性と話す機会がめっきり少なくなってしまった。
別にそれはそれで気楽でいいのだけど、最近、たまに女性のクラスメートと話をする時にちょっとしたぎこちなさを感じるようになった。教室が変わってから1ヶ月も経たないのに、である。
そんな短期間で人間関係がぎこちなくなるものなの、って思うかもしれない。でも、人がある種の集団の中で人間関係を築くための適切な言葉遣いを学習した結果、他の集団に属する人間とのコミュニケーションがうまくいかなくなることってあると僕は思うのだ。
例えば、今まで真面目で「うん、お母さんをがっかりさせたくないから勉強頑張るよ」なんて母親の言うことを素直に聞いていた男の子が(そんな子が今どきいるのか分からないけど)、高校デビューしてちょいワルの友達と付き合うようになって「いちいち口出しすんなよ、ババァ」なんて言うようになったとする。母親はびっくりして、以降息子と話すときは、おそるおそる、距離を置いて話すようになるかもしれない。
このことは、彼は「ちょいワルの友達」という集団に馴染むための適切な言葉遣いを学んだ結果、優しい言葉遣いが望まれる集団である「家庭」と少し距離が離れてしまったと言えるんじゃないかと思う。
社会に存在する集団は、それぞれ「正しいことばの使い方」として集団的に承認した語法を持つという。そして、集団はそれらの語法を用いるよう集団の成員に陰に陽に要求する。そのようなことばの使い方を、思想家ロラン・バルトは「エクリチュール」と呼んだ(『現代思想のパフォーマンス』難波江和英・内田樹著より)。
ということで、男だけの集団には男集団のエクリチュールがある。どういうことかと言うと、男集団の中ではある種の乱暴なコミュニケーションが適切であり、女性が持つような相手を多く気遣うようなコミュニケーションを使う人間は“テンポが異なる”ものとして集団から敬遠されるのではないかと言うことである。例えば、「お前、頭悪すぎるよ、って今言ったけど冗談だからね、本気にしないでね」って言ったら、男同士だったら冗長すぎて鬱陶しいと思われるだろう。男同士だったら「お前、頭悪すぎるよ、ぎゃはは」だけで十分なのだ。
ちなみに、エクリチュールは、言葉だけでなく、身体運用や振舞いなどといった個人の行動全般についても、彼の所属する社会集団における規範的なふるまい方に従うことを要求するという。僕が女性と話すときにぎこちなさを感じるのも、男集団が求める「女性とは一定の距離を置いて話すべし」という規範(そういう規範が本当にあるのか分からないけど)に無意識に従うようになってきているのかも知れないな、と思う。男集団の中の1人が、好きな女性が出来たけど照れくさくて話しかけられない、って親しい男友達に相談して、周りの男友達が頑張ってその照れ屋の男をバックアップしていく、って話はよくありそうじゃないですか。彼がそういう振舞いをするのは、本人の性格もあるけど、その男集団が彼に照れ屋であることを求めてるっていう面があると言えるのではないだろうか。
で、なんでこんな話を書いたかというと、先日女友達から焼き芋のお菓子をもらったときに、こんな会話をしてしまったからである。
「これ、食べてみてよ」
「あっ、この芋菓子、本当に買ったんだ。ありがとう、どれどれ…(袋から1つ取り出してみる)。この色形、あれに似てるなぁ。う〜ん、何に似てるか言ってもいい?」
「えっ?」
「(返答を待たずに)寄生虫のウェステルマン肺吸虫に似てるよ」
「…(無言)」
いや、芋菓子の購入を勧めた僕が言う言葉じゃないよね…。ほんとすみません。いやね、これは僕が悪いわけではなく、男集団のエクリチュールが僕にある種の振舞いを要求した結果なんですよ。そんな言い訳がましい上に人のせいにするという、男の風上にもおけない僕であった。

