『愛するということ』(ユーリッヒ・フロム著)の中で、哲学者(心理学者でもある)フロムは、フロイトの言葉をこう引用している。
「恋に陥るということは、いつも、正常ならぬ状態にかたむかせるものであり、常に現実に対して盲目となることや、強迫的な傾向をともな」うものである、と。
まぁ、フロム自身は、このような恋と本当の愛は違う、と同書の中で言ってる(と思う)んだけど、こと恋に落ちるということについては、フロイトの言うことに一理あるかも知れない。
多分、フロイトは病的な人たちが陥る特殊な恋の形について述べているのではないと思う。彼の主張していることはおそらく、恋愛は
「相手に気に入られるためには、周囲の目とか評価なんて気にしちゃいられない」
って誰しもに思わせてしまうという性質を持っている、すなわち恋愛は構造的に人を盲目にさせる、ということなのである。
例えば、周りの人の気分を逆撫でしてることに気づかずに人前でいちゃいちゃしてるカップルがいると思うんだけど、そういういちゃつくカップルを見ているときって、「あ〜、やだやだ、自分が誰かと付き合うときはこんな見苦しいまねはしたくないね〜」って多分思うんじゃないだろうか(もしくはうらやましい!って思うのかも知れないけど)。
でもね、おそらくいちゃつくカップルだって、付き合う前は他の人と同じように「いちゃつくカップルうぜ〜」って思ってたんじゃないか、って気がするんだよね。
多分、周囲が見えないカップルっていうのは、お互い誰かと付き合う前から一貫して(異性と付き合い始めたら周囲なんて気にせずいちゃついてやろう)って思ってるんじゃなくて、付き合い始めてからいつの間にかそうなってしまったんじゃなかろうか。
これって、好きな人に気に入られたいことばかりが気になって、周りが見えてないって状態だと思うんだけど、逆にもし冷静に「自分にとってこの状況はプラスになるか」と考えたとき、周りの冷たい視線に気づいたら、とても二人の世界には入れないと思うんですよ。
これがフロイトの言う「現実に対して盲目になる」ってことだと思う。
ちなみに、本当に好きじゃない人となりゆきでデートしてるときなんかは、「こんなところを他人に見られたら困るな」なんてデート中にもきょろきょろしたりとか、妙に距離をおいたやりとりとかしちゃってたりするよね。これはむしろ惚れてないからこそ自分が周りからどう見られているか、とかに気を配れることの証左だと思うんだけど、どうでしょう?
ここからちょっと小難しい話をば。
現実に盲目になるっていうのは、「大好きなあなたのためなら自分はどうなってもいい」とか「あなたのためなら何でもできる」って感覚に近いんじゃないかと思う。
でも、相手に惚れるっていうのは、相手に弟子入りする構造と同じ、すなわち自分が主体的に動けなくなる=相手にとらわれるっていう要素を含んでるものである。そこに自分を見失い、本来は出来ているような「自分の立場を守るために周囲の目に気を配るという行為」が出来なくなるという可能性を常に含んでいると思うんだよね。自分をコントロール出来ている状態(つまり自分の意思で主体的に行動できる状態)なら、自分の不利になるような状態(社会から冷たい視線をあびるような状態)に身をおかないだろうからね。そして、自分のコントロールをある程度失ってしまう状態、それがおそらく現実に盲目になるという構造だと思うのである。
でもね、それが度を越すとどうなるのか。「自分はどうなってもいい」という人間と付き合うことって、果たして喜ばしいことなんだろうか?いや、異性からそう言われたら最初はきっと嬉しいんだけど、関係を続けていくときに不安にならないだろうか?「この人、何考えてるんだろう」って。このような「自分はどうなってもいい」的恋愛が続くとある種の病的恋愛構造になるんじゃないかと思うけど(そしてそこに狂気の芽をはらんでるのかも知れないね、あなおそろしや)。
僕は、自分を大切にすることと相手を大切に出来ることは密接につながってると思う。そしてそれがフロムの指摘する「他者への愛と自分自身への愛は二者択一ではない」ということだと思うんですよ。その話はおいおい展開していくということで、今日はここまで。
PS 「どうでしょう」で思い出したけど、水曜どうでしょうの動画を見られるサイトを発見したので、リンクを貼ります(←観念奔逸状態ですな)。旅ものとして、面白いですよ。&ツバサ君、薦めてくれてありがとう!
『ユーコン川160キロ』
リンクが切れるかもしれないので、興味のある方はお早めにどうぞ。


