続・晴耕雨読

東北在住のへっぽこ医師ばんじょーの日々思っていることをつづったブログです。週2回くらいの更新を目指しています。スパムコメント対策のため、 コメント時に画像認証をお願いしております。お手数ですがご了承ください。

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社会環境と自己分析~今日も長文でごめんなさい~

寝酒を飲みながらブログを書いてます。酒を飲んでいたときに知人としていた話を思い出しながらブログを書こうと思ってるんだけど、酒をのんでいるときに覚えたことは、酒を飲んだときに思い出しやすいと心理学的に言われているもので。

なんちゃって、実はただ酒が飲みたかっただけなんですけどね。責任転嫁?してごめんなさい。

ちなみに、麻薬をやっているときに覚えたことは、再び麻薬をやったときの方が思い出しやすいとか(僕はやってませんよ)。このような実験結果は、G・ベイトソンが『精神の生態学』で言っていた、学習する文脈を学習する、すなわち動物は勉強する環境と1セットで物事を学習する、という話に通じるものがあるのかもしれない。だから、試験勉強するときは、試験会場に似た場所ですると当日思い出すときに効率がいいのかも知れないね。

「知れないね」なんて、投げっぱなしですみません。



さて、ここから本題。

先日恩師コウイチさんと、予備校の同期である&ツバサ君(ミドルネーム"不機嫌")と酒を飲む。コウイチさん、いつもごちそうさまです。

その席で、コウイチさんと自己分析について話をする。自分がどういう性格で、どういう好みを持っているのか、ということはどうやって分析するんですかねぇ、と聞いたところ、コウイチさんは「自分が何者であるかは社会との関わりの中で知るものなのではないか」とおっしゃっていた。

確かにそうだ。例えばロビンソン・クルーソーが「消防士になれる適性を持っているか」とか「思いやりのある人」であるかどうかを判断するのが難しいように、他の人間との比較なしに自分が何者であるかを知ることは難しい気がする。

他の人間と比較して自分を分析するという行為は、イメージとしては、自分が直接知っている人や、ニュースや新聞で見聞きした周囲の人間像をまとめて、その平均値と比較して、自分は「別にそこまで話は上手じゃないけど、ノリはいい方でみんなとわいわい騒ぐのが好き」とか、「人並みにサッカーは上手いけどプロにはなれないな」といった自分像を割り出すという行為に近いのかもしれない。

ここで書いた自己分析の方法って、周囲の環境の中で自分のポジションがどういうものかを位置づける行為でもあると思う。おそらく、上の例での「ノリがよくてわいわい騒ぐのが好き」というパーソナリティは、飲み会とかでハジケられる自分を発見したり、友人が「お前、今度の飲み会で新入生相手の盛り上げ役を頼むわ」なんて言われたりしてるうちに、ああ、自分が住んでいる社会や環境の中では、自分ほどノリがいい人は比較的少ない=自分はノリがいい方だ、ってな具合に形成されていくものなんじゃないだろうか。すなわち、自分の性格や趣向っていうのを分析するには、自分がどういう環境にいて、どういう位置づけにあるかの分析を含めて行われるんだと思う。

ウチダ先生が2005.2.28.のブログ"「自己アピール」って何ですか?"で就職活動における自己アピールとは「自分がこの社会の中のどのポジションにいるのか、それをできるかぎりわかりやすく記述するということである」と述べておられるが、まさにそうだと思うのである。

上の例をまたまた使いまわすと、「ノリがよくてわいわい騒ぐのが好き」というパーソナリティは「飲み会で盛り上げ役を必要としているときに、その役を務めることが出来る」パーソナリティと言うことが出来るだろう。そしてさらに、飲み会というコミュニケーションの場がある環境においては、自分はその場で必要とされる役割を引き受けることが出来る、と言い換えられるだろう。


ちなみに、これは逆に言えば、飲み会でノリで騒げるけど、しっとりとした飲み会で語りに入って人を魅きつけるのはどっちかっていうと苦手(どっちも出来るよ、って人もいるかも知れないけど)っていうことを表しているんじゃないかと思う。このような不得手なものっていうのも社会との関わりの中でだんだんわかっていくことで、このように自分が不得手であることを社会によって強制的に認識させられることを、精神科医の斎藤環は精神分析の用語を用いて「去勢体験」と言っている(by『社会的ひきこもり―終わらない思春期』)。これはすなわち、自分には能力的な限界があるって思い知らされることらしいんだけど、引きこもりっていうのは、そうして他者から能力の限界を思い知らされるのが苦痛で(例えば学年で最下位の点数を取ったり、飲み会で一人で隅っこにいる羽目になっちゃったりとか)他者との接触をやめるようになったんじゃないか、と斎藤氏は述べている。でも、そのような去勢体験を癒してくれるのは、やっぱり他者しかないのである、と言っている。だって、あなたに得手がある(「お前は語りは得意じゃないけど、ハジケられるから飲み会の時はいいよな」)と直接的なり間接的なり言ってくれるのは、他者しかいないからだ。


ということで、就職活動というのは、自分が過ごしてきた環境の中でどういう役割を担っていたかを人事の人に説明して、そういう役割の人を必要としていれば会社は採用し、そうでなければ採用されない、というプロセスである、というような帰結をウチダ先生は持ってこられていたが、うん、確かにそうなんだろう。

「そうやってアピールした自分のポジションが、第一志望の会社になければどうするんだ?飲み会を全くやらない会社で、飲み会で盛り上げられる性格です、なんてアピールしたら落とされるんじゃないか?」って考えがあるかもしれないけど、う~ん、多分そういう人は、その会社に行かない方がいいんじゃないかなぁ。いくら行きたいと思った会社であっても、自分を活かせるポジションがなかったら、本人も会社もお互いに不幸だしねぇ。

なんて、就職活動をしている学生さんの気持ちをさかなでるようなことを書いてすみません。いや、別に適当にこの文書を書いてるわけじゃなくて、僕も8年くらい前に就職活動をしてるんですよ。散々不採用通知をもらったけど、そのときの自分を振り返りつつ、あぁ、自分がどんな社会的ポジションを担っているかなんて考えずに就職活動してたなぁ、なんて思いながら書いてるわけです、はい。

ということで、自分を知るためには自分の中にだけ目を向けるのではなく、自分がどういう環境でどういうポジションにいるのかということにも目を向ける必要があるのだと思うんだけど、実は自分がどういうポジションにいるかというのは、自分がどういうポジションにいたいか、という欲望の色眼鏡によって解釈が歪んでいる可能性がある。例えば自分より飲み会でハジケられる後輩が入ってきたら、「こいつはたまたまハジケられてるけど、まだ俺と比べたら場の雰囲気を読みきれてないな」なんて値引きして解釈してしまうように。これはフロイトの言う投影の概念に近いものがあるだろう(ある心理分析の本では、「同化投影」と名づけていた)。多分スキーマと言ってもいいと思う。

実はコウイチさんの言う自己分析というのは、この「自分を取り巻く世界の解釈の仕方」を含めたものを指していると思う。そして、「自分がしている世界の解釈の仕方」と「他人がしている世界の解釈の仕方」との違いに気づくことが、より他者を理解できる方法、言い換えると円滑なコミュニケーションを築くのに役立つのではないかと思うのである。



ウワァ、最後にとんでもなく飛躍したオチをつけちまった、すんません。まぁ、別に今までの話をちゃぶ台返しした訳じゃないとは思うけど…。ちなみに、この「世界の解釈の仕方」が人間同士似通ってるから社会が成り立つってのが、池田清彦が「構造主義科学論の冒険」で言及しているフッサール解釈であり、個々人の世界の解釈を共同化したものが共同幻想であるというのが岸田秀の考えだと思うんだけど、まま、適当に読み流して下さいまし。



PS.コウイチさん、
FTEXT
http://www.ftext.org/
にリンクを貼らせていただきました。これからもよろしくお願いいたします。
しかも、右上の「えふてき」の文字をクリックしたらメインページに飛ぶようになってますね。ありがとうございます。すごく使いやすいですよ。


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  1. 2006/05/18(木) 00:41:03|
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