続・晴耕雨読

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大岡越前、株式、仏教、禅、生命の連続性 ~その3~

(前回のつづき)

坂口安吾の『堕落論』にこういう話がある

昔、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教の布教に来たとき、フカダジという僧が、ザビエルに禅問答を仕掛けた。ザビエルがフカダジに、あなたに会うのは初めてだ、と言ったのに対して、
「あなたは、…今からちょうど1500年前に比叡山で、私のために金を500貫見つけてくれた商人というのが、あなたじゃありませんか。…それともあなたは、ほんとに忘れたのですか?」
と問いかけたのだ。

ザビエルはそれに対して、フカダジに年齢を聞いた後、
「52歳という人間が、1500年前に、比叡山で金を貸すことが出来るということは、おかしいではありませんか。…あなたはどうしてそんなことを云うのですか」と切りかえしたとのことである。

坂口安吾はこのやり取りについて、禅には禅の世界だけの約束というものがあり、禅問答というのはそういった約束の上にたって論理を弄しているものだ、と言っている。そして、まっとうな論理には禅問答はかなわない、と述べている。

僕は、あえて安吾とは異なる解釈をしてみたい。禅問答とは、むしろ論理の前提を疑うものなのではないか、と。この場合の前提っていうのは、ザビエルの場合は「人間は100年くらいしか生きられないし、生まれ変わりなどもしない」って感じだろう。前回から書いてきたのだが、論理の前提となる客観的な情報というのを、人間同士は共有し得ないと思う。そうである以上、論理的に話を進めていっても、土台である前提が覆って話自体が無意味になる可能性はあるわけで。禅というのは、論理を組み立てた後に土台を覆されてあたふたする前に、前提自体を多方向から見直して、あらためて物事の成り立ちを多面的にとらえましょうっていうような思考ツールなのかも知れない。

上にザビエルとフカダジのやり取りを書いたが、フカダジは別にザビエルにただ面白がって禅問答を仕掛けたわけではないと思う。仏教観に前提としてある、輪廻転生についてどう捉えるかを禅問答という形式で聞きたかったのではないかと思うのだ。

『日本人はなぜ日本を愛せないのか(鈴木孝夫著)』に、仏教の輪廻転生思想について書かれている。著者は輪廻転生観に日本人の感じる生命の連続性が反映されており、それゆえ自分とつながっている外界の生命や自然を尊ぶ心を持っているのだろう、と論を進めている。対照的なのがキリスト教で、理性を持った人間は生き物の中で別格の存在であり、それ以外の存在は人間に使役される存在である、という考えらしい。まぁ、その地域で人間が生き残るために生まれた合理的規範が宗教であるという考えに立てば、別にどっちの思想が上とか下とか比べるつもりはないが。

で、掲本に『死の壁(養老孟司著)』の引用があった(ややこしくてごめん)。どんな話かというと、ある仏教国で養老氏があるお爺さんとお酒を飲んでいたときに、養老氏のビールのコップに入った溺れているハエをお爺さんがハシでつまんで救い出したらしいのだが、そのときのお爺さんのセリフが
「(このハエは)おまえさんの爺さんだったかもしれないからな」
というものであったそうだ。

生き物が死んだら別の生き物に生まれ変わるっていうのが輪廻転生の考えなんだろうけど、これを否定するに足る完璧な論理と科学的な前提は、おそらく西洋の学問にはないだろう。神の存在を証明できないのと同じだよね、多分。

でね、ここまで「論理の前提は万能ではない」という線で話を進めてきたんだけど、万能ではないにしても前提がなければ話をする上で不自由なわけで、人間同士がお互いに理解しようと思ったら、前提を完全に擦り合わせることが出来なくても、ある程度同じ前提で擦りあったらいいや、ってな感じで妥協しないとそもそも話自体が出来ないんじゃないか、と思う。なので、自分の前提はそもそもあやふやなので、固執しないで相手に合わせてもいいんじゃない、っていうのが「論理の前提は万能でない」という考えの有益な使い方なんじゃないかなぁ。自分の理論に固執しないほうが、話がはずんでいい方向にいくよ、多分。

ちなみに、相手の話を聞きたくないときに、そもそもの前提を非難する場合があると思う。「私の前提は正しい、あなたの前提は正しくない」って言ってくる人って周囲にいないだろうか。例えば、「君の村上春樹論は、そもそもあの作品を読んでない時点で問題があるよ。それに、君は自分の経験からワタナベ君の気持ちを考えてるけど、君が浮気をしない限り彼の気持ちは分からないよ」なんていうようなことを言う知り合いがいるんだけど、これも僕の前提が間違ってることを主張することで、あなたの説はだから全部間違いだ、って言いたいんだと思う。

う~ん、こういうコメントが続くと会話する意欲がなくなるんだよね~。まぁ、その知り合いは、ここまで否定する以上僕とは違う前提(村上春樹についてはすべての作品を読み、主人公と同じ行動をとらないと主人公の気持ちが理解できない)を持っているんだろう。

それに対して、こっちのコメントを否定された腹いせに、相手の前提を否定するのは簡単なんだけど、その前に自分の前提が本当に正しいのかを疑ってみて、相手の前提を多角的に分析すると、このコミュニケーションから学ぶものが出てくるのかも知れないね、と思う。

でも、人とコミュニケーションするたびにこんなあれこれ考えて、そこまでして深いコミュニケーションをする必要があるのか、ということをたまに考えたりするんだけど、僕はただ言葉の交換だけでなく、相手の話の前提まで掘り下げることが、自分の限界を教えてくれる、すなわち自分が成長する機会を与えてくれることにつながると思うのである。成長への欲求が深いコミュニケーションを喚起する、って言うんでしょうかね。


最後にややこしくなってしまって申し訳ない。それに、「前提」という言葉を抽象的に使ってしまったので、分かりにくい部分が多々あったと思うが、どうかご海容のほどを。

(了)




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  1. 2006/04/02(日) 03:42:48|
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