続・晴耕雨読

東北在住のへっぽこ医師ばんじょーの日々思っていることをつづったブログです。週2回くらいの更新を目指しています。スパムコメント対策のため、 コメント時に画像認証をお願いしております。お手数ですがご了承ください。

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大岡越前、株式、仏教、禅、生命の連続性 ~その1~

今日のブログはものすっごく強引な論理展開をしています。面白い本を読んでちょっとハイになってるものでして。読んでてムカつかれたときはご容赦を。



さて、2~3日前の話。父親がテレビドラマの大岡越前を見てたので、僕もついなんとなく見てしまった。

そのときのお話は、2人の母が子供の親権を争って越前の元にやってきたとき、越前が2人に子供を引っ張らせて、子供の身を案じて先に手を放した方に親権を与えるという、例の有名なやつであった。2人の親は育ての親と生みの親という設定で、最終的に育ての母に軍配があがるのだが、裁きが下るまでの過程が面白かった。

というのも、実の母は、最初から生みの親である自分に親権が与えられると思い込んでるようなそぶりを見せているのだ。だから自信満々だし、育ての親をちょっと見下した感じも見せていた。一方で、育ての母は控え目で、子供の幸せを考えると生みの親のもとに戻した方がいいのかな、と思いつつ子供への愛情を捨てられないみたいな、思いやりのある感じを見せていた。で、越前が「子供の手を引っ張り合え」って言った時なんて、育ての親が「そんな子供を痛めつけるような残酷なことは出来ません」的な仕草を見せたのに対し、生みの親は「よっしゃぁ、育ての親をこっちにひきずりこむくらいに子供の手を引っ張ってやるぜ」的な仕草を見せていた。僕なんて、生みの親に「おいおい、そんな満面の笑み浮かべるなよ」って思わずつっこんじゃったくらいだ(テレビに突っ込むな、って言わないで)。

僕はこの演出に驚いてしまった。というのも、今回の話は以前から知っていたが、両方の親がどんな人物で、裁きの最中にどのような言動をとったり振る舞いをしていたかなんて考えたことがなかったからだ。

まぁ、その後で越前が両親に子供を引張りっこさせて、先に痛がる子供を案じて手をはなした育ての親に親権があるという大岡裁きを下すんだけど、経緯を見てると、視聴者が「ああ、これなら育ての親に親権が行ってもしょうがないな」と思えるような文脈がすでに出来上がっているように見えるんだよね。

演出家も、「生みの親と育ての親の対決で、育ての親を勝たせた時に視聴者が納得する展開にするには、ただ子供の手を先にはなさせるだけではなく、生みの親をむかつく感じに、育ての親を好感が持てる感じで演出したほうがいいよね」と思ったのであろう。でも、これって裏を返せば、「すっごく感じの悪い育ての親がたまたま先に手を放した」という演出にしてしまっては、視聴者が「なんだよ、こんなやつに親権を渡す大岡裁きには納得できない」って思う可能性があるってことだと思うのである。

これって、大岡裁きはどんな状況でも適用できる裁きではない、言い換えれば背後に流れる文脈(この場合は育ての親の方が子供の幸せを考えていて、生みの親は自分の幸せの方にだけ目がいっているという文脈)に従って判決は変わるということを示唆しているんじゃないだろうか。

だから、育ての親がロボットみたいに無表情で、子供はあまり好きじゃないけど世間体を考えると手放したくないのよね的な感じで、「引っ張るのに疲れたから先に手を放した」風の振る舞いだったら、大岡越前の裁きは「自分の子供に対して強い想いを抱いていた生みの親に親権を渡す」ってな感じになっていたかもしれない。

ここから少々難しくなるが許して欲しい。

これまで、文脈という言葉を、全体の状況、その場にいる参加者の立ち居振る舞いという意味で書いてきた。例えば生みの親の「子供を引っ張るぜ」っていう自信満々の笑みも文脈を作る一つの要素だし、場所がお白洲だってことも要素の一つだし、2人が越前の前で裁かれようとしてるってのも一つの要素だし。

さて、その文脈次第で判決が変わりうるという話をしたんだけど、でもね、この文脈っていうのは全員が共通に認識しているわけではないと思うのである。権力者である大岡越前の目に映る文脈と、2人の親が把握する文脈はおそらく違うはずだ。そもそも、自分が感じる自分の振る舞いと、他人が観察する自分の振る舞いは同じではありえないだろうからね。

それに、同じ映像を見ても、その解釈は人によって異なると思う。ある人にとっては最高の笑顔でも、笑顔慣れした人(そんな人がいるかどうかは知らないが)がそれを見たときに「んん?なんだ、あいまいな笑みを浮かべやがって」なんて思う場合もあるだろう。あばたもえくぼって言うけど、人間同士で解釈がずいぶん違うってことを示していると思う。

ということで、大岡越前と生みの親・育ての親の文脈の捉え方は異なるだろう。生みの親が自信満々の笑みを浮かべたとき、本人は「自分は最高の笑顔を見せられた」と思い、この状況での笑顔は「他人からみても子育てへの自信と受け取られる」と自己解釈をしたとしても、越前には生みの親の笑顔が「いやらしい笑み」に見え、その笑みを「自分が勝って当然と思っている傲慢な笑み」だと解釈しても不思議ではない。

まぁ、2人の人間が認識する文脈それ自体も、その文脈の解釈の仕方も異なるのは仕方がないとして、問題なのは、越前の方に圧倒的に強い権力があるということであろう。そして、権力者が文脈を異なる形で認識し解釈したとき、その権力がどのように発動するかは弱い立場にいる者には事前には予想できず、事後的にしか分からないんじゃなかろうか。

だからこそ生みの親は子供の手を強く引っ張ることが出来たのだろう。少しでも「大岡越前は私の振舞いを私と違って否定的に解釈している」ことを自覚してしまった場合は、自分の行動がどのような結果を招くかを予測できず、引っ張ることをためらったのかもしれない。

ここまで書いてきたことは、G・ベイトソンが『精神の生態学』に記した学習理論に基づいたものになっている…はず。間違ってたらごめんなさい。


さて、ここまで人間同士の関係について書いてきたが、僕は「力のある存在が弱い立場の人間に対してどのような影響を与えるか」という構図は、人間同士にだけ当てはまるわけではないと思う。つまり、自分に影響を及ぼす権力(他者とも言う)が、ある程度どのように自分に影響を与えるかの予測は出来ても、完全に因果関係を把握することは出来ないんじゃないか、ということである。ということは、権力者がいかに完璧な論理体系であなたに賞罰を下したとしても、権力者の視点とあなたの視点がどうしても一致しない以上、権力者は常にある種の不条理性をもってあなたに影響を与えるということになると思うのだ。平たく言うと、あなたはそういう判断を下したけど、私の知っている情報から考えると納得いかないし筋が通ってないよ、という立場になってしまうってこと。

今の文章の「権力者」の項に、株の値動き、世の中の仕組み、神の摂理、ツキの法則などなど、なんでも自分の力だけでは動かしえないような事物を当てはめても話はつながると思う。そして、自分は最善の行動をとったはずが、得体の知れない力によって、それこそ不条理に泣きを見るような目に合わされる、なんてことはよくあることだと思うのである。「うまくやってる」って思っていたら、実は自分は生みの親で越前に裁かれていた、ってこともありうるのだ。


(つづく)



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  1. 2006/04/02(日) 01:41:01|
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