続・晴耕雨読

東北在住のへっぽこ医師ばんじょーの日々思っていることをつづったブログです。週2回くらいの更新を目指しています。スパムコメント対策のため、 コメント時に画像認証をお願いしております。お手数ですがご了承ください。

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心地よいコミュニケーションって何だろう

先日、
FTEXT
http://www.ftext.org/
の会議の後で、恩師コウイチさんとお酒を飲んできた。
いや~、美味しいお酒でした。ごちそうさまです。

4時間ばかり話したのだが、話は縷々転々として身体知からSNS(ソーシャルネットワークサービス)、コミュニケーション論、恋愛論、心理学、近代科学の物語性、組織論などを語り合う。コウイチさんは心理学に精通しておられることもあり、相手の話を促すのが上手い。僕ばかり話し過ぎてはいかんなと思いつつ、ついつい話をしてしまう。心地よいコミュニケーションが出来るのである。

心地よいコミュニケーションって何だろう?僕は、その答えは相手を責めないことにあるんだと思う。「あなたは別の考え方をしたほうがいいよ」という言葉ではなく、「あなたはそういう考えを持っているんだね、私はそれに関してこういう考えをもっているんだよ」というやりとりが、それに当たるのではないかと思うのである。

例えば、うつ病の人には「頑張れ」という言葉は禁句だという話をよく聞くが、それは裏を返せば「あなたは頑張ってないよ」というメッセージを伝えるからだという。『親業』という本では、そのような「あなたはダメだ、もっとこうした方がいい」というような、相手の現状を責めるメッセージを「あなたメッセージ」と呼んでいる。そしてそのような「あなたメッセージ」が親子の関係を悪化させるから、親子関係で悩んでいる親には、そのようなメッセージを使うことはやめたほうがいい、と書いている。

心地よいコミュニケーションとは相手を変えようとするのではなく、相手のあるがままの状態を肯定すること、そこから相互理解が始まるのではないだろうか、と思うのである。相手を肯定するということを「共感する」と置き換えてもいいと僕は思う。そして、相手を肯定するという考えは、TA(交流分析)というカウンセリングの技法の一つである(確かそうだったはず)。

こう書くと、「なんだ、相手を責めなきゃいいのか、簡単じゃないか」と思われるかもしれないが、実は案外そうでもなくて。

相手の言うことを長い時間「ふんふん」とずっと聞いてて、相手から「君もそう思うでしょ」と言われたときに、理由は特にないけど同意したくなかったっていうような経験はないだろうか?

例えば、相手が30分くらいひたっすらしゃべり続けてる場合、それに対してうなずいてるうちに、いつの間にかぼんやりしてきて、目がうつろになっちゃってる自分を感じてるときとか。そういうのって、表面上は相手のしゃべりを受け入れているようだけど、実は身体が「もう相手の話を聞きたくない」っていう否定の意思表示を出していると思うんだよね。そういうときに相手から同意を求められたりすると、何か理由は分からないけどなんとなく否定したくなるのは僕だけではない気がする。

多分、相手の話を黙って聞き続けるということや、相手の価値観を理解し受け入れ続けるということは、ある種の自分自身の否定につながるんじゃないかと思う。そして、そういうときに自己防衛本能が働いて相手を否定したいと思うのは自然なんじゃなかろうか。でも、そのような相手を否定する心理が働くと、逆に相手に「ああ、自分は否定されたんだな」という不快な印象を与えちゃったりして。

村上春樹の『回転木馬のデッドヒート』に、言葉のしゃべれない少年が人の話を聞き続けた結果、最後に自殺してしまったという寓話があるが、話を聞き続けることは決して楽なことではないということを示しているように思う。

コミュニケーションを行うときに、相手を肯定するだけでなく、自分自身を肯定するということも大切なことなんだろう。でも、相手を理解し、より深いコミュニケーションをしようと思ったら、自分自身の否定につながる可能性があるんだよね。そう考えると、コミュニケーションって、常に痛みを伴うものだと思うんだけど、それでもその痛みを引き受けつつ、相手の価値観も自分の価値観も尊重しつつコミュニケーションをすることが、相手の「理解してくれた」という気持ちを引き出し、心地よさにつながることなのではないかと思うのだ。

分かりにくい理路で申し訳ない(ウチダ先生風に)。

でもね、ここまで書いてきたことを否定するように聞こえるかもしれないけど、結局言葉では、万言を尽くしても相手自身を表現しきれないし、自分自身も表現しきれないと思うんですよ。これについてはラカンが「自分の言いたいことには漸近的にしか近づけない」という言い方をしていたけど、だから、言葉数が多いコミュニケーションが必ずお互いの理解につながるとは言えないのかも知れないね。

それに、言葉はあくまでコミュニケーションの一手段であって、お互いの存在を確かめあう方法は、目線や相手との距離やちょっとした動作など、沢山あると思うんですよ。それを意識的に利用できるかどうかは別として。

なので、お互いにやわらかい雰囲気の中で杯を交わしつつ、
「この梅酒、美味しいね」
「そうですね」
なんてやり取りが、むしろ言葉を尽くしたコミュニケーション以上に、お互い理解し合えたっていう気持ちを生むこともあるのではないかと思うのである。

今日の一言:雄弁は銀、沈黙は金
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  1. 2006/03/29(水) 01:30:30|
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