続・晴耕雨読

東北在住のへっぽこ医師ばんじょーの日々思っていることをつづったブログです。週2回くらいの更新を目指しています。スパムコメント対策のため、 コメント時に画像認証をお願いしております。お手数ですがご了承ください。

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引越しよこんにちは(そしてエルニーニョよさようなら)

えっと、荷物を運ぶ段になってエルニーニョが過ぎ去り、連日猛吹雪のなか、荷物を抱えて新居と旧居を往復しているばんじょーです、こんばんは。そして冬将軍よこんにちは。春はまだ来ませんかそうですか。


まずは近況報告から。

明日引越しの予定で、新居に落ち着くまで数日かかりそう。で、その後帰省する予定です。いや~、春休みだというのにぜんぜん落ち着かないです(涙)。
で、新居のBフレッツの工事に来るのがしばらく後だということで、しばらくインターネットに接続できなくなると思いますが、その間に連絡くださった方にはご容赦いただきたく。

とりあえず、内容がバラバラになっちゃってて申し訳ないけど、ネットが使えるうちに書きたいことを書かせていただきます。

最近『敗北を抱きしめて』byジョン・ダワー著を読み終えました。ごうてつさん、勧めてくれてありがとう。あれはとんでもない大作ですね。A級戦犯が靖国に奉られてるのは、東条を含むA級戦犯が全員で口裏を合わせて、自分たちに戦争の責任があり天皇には責任がなかったと主張して、東京裁判で天皇に戦争責任がいかないようにしたからなんじゃないかと思ったのですが、どうなんでしょうかねぇ。まぁ、彼らが自分を犠牲にして国体を守ったと解釈すれば、靖国に奉られてもおかしくはないか、と。デリケートな問題なので、軽々しく書いてはいけないことなのかも知れませんが。

そして、今はウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読んでいます。先日の集団精神療法でコミュニケーションのルールについて触れたと思うんですけど、あの考えは家族療法で重要な考え方で、さらに家族療法ではそのルールという視点について、ウィトゲンシュタインを参照してるんですよね(『人間コミュニケーションの語用論』byポール・ワツラヴィック)。なので、ウィトゲンシュタインをそろそろ読み時かな、と。でも、難解な上、引越しやら何やらで時間がとられて読書が遅々として進まんです…。こういちさん、お会いするときまでに全部読めないかもしれないです、すみません。っていうかいきなり『哲学探究』から読んだ方がいいのかしら?

さて、現代思想つながりで。
『ひぐらしのなく頃に』というパソコンのサウンドノベルゲームをやってたんですが、これ、すごいですね。批評家の東浩紀のブログ『渦状言論』(←ネタばれ注意)でも紹介されてたんだけど、心理学やら現代思想的な発想がてんこもりで(ルールという考えやシステム論について、作品中で盛んに言及されてます)、しかもサスペンス・ミステリーとしても内容が非常に面白い。本当に稀有な作品だと思います。おまけストーリーの『ひぐらしのなく頃に礼』の1話目の賽殺し編はサルトルの引用で、2話目の『昼壊し編』はE・フロム『愛するということ』の思想が用いられているんじゃないかな、って思うんだけど、誰か分析してくれないかな?そのうち自分でもブログに書こうかと思ってるんですが、こういうのってネタばれを含んじゃうので、なかなか書きづらいんですよね…。ちなみに、念のため書いておくと、エッチぃ描写は全くないですよ。

まぁ、とりあえずこんなところで。ではまた。

PS1まさに外道(←もっと見たい方はこちらのHPを見てください)
諸刃の矢

いや、これは外道ですね。

PS2「危機一髪」
う~ん、ブラックだなぁ。鳥は大丈夫だったんだろうか…。

PS3「帽子のような髪型
本当に帽子みたいです。

PS4「本物みたいなCG」
その1 その2
CG技術の進歩を実感します。っていうか、これ普通に写真のように見えるんだけど、本当にCGなのかなぁ?

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  1. 2007/03/14(水) 00:48:53|
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集団精神療法その2

まず、I村先生は参加者一人ひとりへの目配りを欠かさなかったと思う。I村先生は、参加者同士の話を切り上げてもらった後に(それがまた自然に会話に入り込んで、いつの間にか会話を収束させてしまうんですよ)、あまり話に加わっていないが話をしたそうな人間に「こういう話があったと思うけど、あなたはどう思う」とか「何か思ったことはありますか」と話をふっていった。多分、視線の動きとか、そわそわしている感じとかを汲み取ってるんだと思うけど、そういう細かな動きを注意深く見ていたと思うんですよね。

クラスメートの1人が、集団精神療法の後でこう話していたんだけど。
「話をふるタイミングが絶妙だよね。最初は、絶対こんな場で自分のことを話してやるもんか、って思ってたけど、みんながだんだん話をするのを聞いてるうちに、なんか自分も打ち明けてもいいかな、って思うようになっちゃったんだよね。そのときに話をふられたから、つい…。たまんないよね~」

そのように、テクニカルな面でもI村先生は上手くコミュニケーションをコントロールしていたんだけど、もっと大きな視点からも、先生はコミュニケーションの方向付けを行っていたと思う。

ここからはちょっとコミュニケーション理論が入ってくるので読むのが面倒だと思うので、興味ない方は読み飛ばしてくださいまし。

たとえば、参加者同士の会話の合間に、たまにI村先生が割り込んだり、あるいは話を引き継いでいたんだけど、話手の役割を引き継いでも、たいていはその話題を打ち切って、なぜそういう話題になったのかという分析を行っていたように思う。
「最初なので、お互いの出身地などの話を続けてましたね。こういうときは、大抵の人は場の様子をさぐりながら、当たり障りのない会話をします。でも、途中から別の参加者に会話に参加してもらえないかとアイコンタクトを送ってましたよね。」ってな感じで。なんでこんな分析を行ったんだろう?それは、特定の人だけでコミュニケーションが固定しないようにするためだと、僕は思う。

会話が同じような感じで続くことは日常的によく見られることなんじゃないだろうか。

例えば、上司が自分の自慢話を喋り続けて、部下がずっと相槌を打ち続けているようなとき。
失敗した友達が自分を卑下していて、それを励ます、あるいは叱咤し続けているとき。
奥様同士がお互いにお互いのお世辞を言い合っているとき。
などなど。

一番上の例でもう少し話を掘り下げてみよう。部下が「早く上司の方から話題を変えてほしいなぁ」なんて思ってても、なかなか自慢話が終わんなくて辟易してしまうことがあるだろう。そのとき部下はこう思うんじゃないだろうか。
「上司が話の主導権を握ってるんだから、こういう時には部下に気を利かせて、何か面白い話題に変えてくれるぐらいに気を使ってほしいよな」
でも、実は上司の方も自慢話に飽きてきてるんだけど、どんな話題が部下にうけるのか分かんなくて話題を変えられない、ってことはないだろうか。部下が上司の自慢話を聞いているという行為自体が、上司の話を肯定している(=促している)と考えられないだろうか。「部下が楽しそうに自分の自慢話を聞いてくれている」と思ったら(実は違うんだけど)、上司の方もわざわざうけるがどうか分からない別の話に切り替えるリスクを好きこのんで背負わないだろう。

ここには、上司が自慢話をして、部下がその自慢話を聞くという暗黙のルールが存在している。両者とも、そのルールを作ることに加担している。だから、片方の一存ではなかなかルールを変更するって出来ない。でも両者とも、そのルールを作ったのは自分だとは思っていない。相手に責任の大半があると思っている。ルールを正確に把握していないから、ルールに適切に対処できない。つまり、ルールをうまく変更(自慢話をやめて別の話をする)出来ないのだ。

難しい話でごめんなさいね。でも、一応最後まで。
では、自慢話をストップするためには、っていうと、ルールを正確に言葉にして顕してやればいい。そうすれば、その話をやめるにしても、このまま話を続けることの損得が勘定できるから、両者ともに納得して別の話にうつることができる(と思う)。
余談だけど、ここでの、会話の流れを変えるために、その会話が行われているルールをあえて説明するというのは、おそらく家族療法で行われている『症状を処方する』というのと同じものだと思います(なんで症状を処方するといいのかについては、ミルトン・エリクソンとジョン・ヘイリーをひも解く必要があるが、それはまた別の機会にでも)。

さて、たぶんこの例を見て、多くの人がこういう風に思うんじゃないだろうか。
「なに言ってんだ?部下が上司に、この場にこういうルールがありますよ、だから自慢話を切り上げましょう、なんて言えるわけがないだろう」
まさにそれが、当事者がルールを変更できない理由の1つなんです(断言)。ゆえに、ルールの変更っていうのは、外部から来た人間(もしくは出来事)によってなされるんじゃないでしょうか。終戦後に松本委員会ではほとんど変更できなかった日本国憲法を、GHQがいともあっさりと(実際は大変だったらしいけど)変えることが出来たのも、それと同じ理由なんじゃないかと思うけど(『敗北を抱きしめて』ジョン・ダワー著)。逆に、時の吉田首相が、GHQが決めた憲法を後から変えることが出来ると思っていたけど、それは間違いであったことが分かった、って語っていたのが印象的だったなぁ。

話を戻そう。I村先生は、そのようにして全体のコミュニケーションをある方向に持っていった(と思う)。
それは、その場にいるなるべく多くの人間がコミュニケーションに参加するという方向であり、誰でもが自分の考えを述べることができ、それに対して他のメンバーが傾聴するという方向であったように思うんですよ。
相手の話を肯定することも否定することも、相手にある種の会話のルールを強いてしまう可能性がある。そこには特定の人同士で会話を続ける、っていうルールも含まれると思うんだけど、そういう各所に出来たルールを、それと分からず崩していき(あからさまに会話をつぶすと逆に参加者が会話したくなくなるだろう)、別のルールに誘導していくって作業をI村先生は丹念に行っていたと思うんですよ。そして、それは本当にデリケートで、一つ間違うとその場が収拾つかなくなる可能性があったんじゃないかな。

こういうことで、I村先生の集団精神療法に参加し、その流れを目の当たりにして、僕は本当に感銘を受けたし、実際にある種の影響(それはおそらくよい影響だと思うんだけど)を受けたんですよね。自分が感銘を受けたことを少しでも文章に残したくて、数ヶ月間考えてたんだけど、こうして書くことが出来て少し肩の荷が下りた気分です。この分析は外れてるかも知れないけど、まぁそのときは努力賞ってことで、ね。
  1. 2007/03/14(水) 00:08:57|
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集団精神療法その1

ばんじょーです、こんばんは。
引越し先がついに決まりました。荷物の運び入れはこれからなのですが、とりあえず一安心。ご協力いただいた皆様、本当にありがとうございました。


先日、今度卒業するJ先輩と、さる方と僕の3人で、2時過ぎにコーヒーを飲みに行った。実は12時に待ち合わせして食事にいくはずだったのが、目が覚めたのがなんと12時半。

あれっ?携帯の目覚ましは鳴らなかったの?しかもメールと電話着信も何件か入ってるし…。メールには遠くの方に2人で食事に行っているというメッセージが。

よくよく携帯を見てみると、なぜかドライブモードになってて、一切の音が鳴らないような設定になっていたのである。昨日から携帯の調子が悪かったんだけど、まさか寝てる間にドライブモードにまで入ってしまうとは…。

その後は2人にメールで平謝りし、なんとか許してもらえてコーヒーをご一緒させていただくことと相成ったわけである。寛大なJ先輩とさる方に感謝です(寝坊して本当にすみません…)。

コーヒーとケーキをいただきながら、3人で進路の話などをしていたんだけど、J先輩の話の振り方が上手かったもので、ついつい喋りすぎてしまって、少し反省。でも、楽しい時間をありがとうございました。


さて、J先輩とさる方にも話をしたんだけど、話の振り方が上手いといえば、精神科医のI村先生を思い出す。I村先生は秋田では有名な精神科医なんだけど、昨年の冬に選択授業のときに「集団精神療法」というものを体験させてくださった。

先生曰く「集団精神療法」というのは、複数の人間に同じ場所に数時間いっしょにいてもらい、その間何を話してもいい(沈黙しててもいい)、というものだそうだ。

ん?これが一体何を癒すというのか?そんな状況では、沈黙しっぱなしか、あるいは世間話に終始するんじゃないのか?実際に選択授業のときにも、学生側から「何か明確な目的はないのですか?」とか「どういう効果があるんですか?」という質問が出た。I村先生は、「まぁ、こういうものだから」的な受け答えをして質問を流してたんだけどね。

でも、時間が経つうちに、場の雰囲気が変わりだした。徐々に参加者が自分の心の奥底にある本音を話すようになってきたのである。
「俺にはぶつかりあいながらも本音で語れる仲間がいて、そんな関係はそれまではウザいから必要ないと思ってたけど、今はとても大事に思っている」
「本音を語らないことで相手を傷つけることもあるけど、本音を語って相手を傷つける可能性があるなら、私は本音を語らないことを選ぼうと思っています」
参加者たちが顔を赤くしながら自分のことを語っていく。それは4年間一緒に授業を受けていながら一度も見たことのない側面であった。僕は周りの人がそういう考えを持っていて、そしてそれが突然今この場で語られていることに驚きを隠せなかった。周りの参加者たちも少なからず興奮していたように思う。

その瞬間は、本当に突然であったように思う。今まで張り詰めてたものが消えてフワッとした感覚に包まれた、っていうか(なんか抽象的な表現でごめん)。
あぁ、こういうのって、本当に仲がいい友達と何人かで集まって酒を交わしたときに、ふとぽつぽつと本音を語りだすような、あの雰囲気に似てるかも知れないなぁ。でも、いくら仲がいい友達とだって、数えるほどしかそんな雰囲気になったことはない。それをシラフで、しかも意図的に作りだせるものなのか…。

集団精神療法が終わった後、I村先生はこうおっしゃった。
その場に身を委ねず、本音を語らない参加者も何人かいたけど、それはそれで本人がやりたいことを選んだ結果だからいいと思う、と。
そして、この集団精神療法は、無意識に働きかけるんですよ、じわじわと。無意識の力を侮ってはいけませんよ、って。

この集団精神療法というのは、同じようなPTSD(心的外傷後ストレス障害)を受けた方に対して、心の傷を癒すために用いられるんだそうである。体感した後だと、確かに効果があるに違いないと思う。

余談だが、実はこの体験の後で、人間関係が(おそらくいい方向に)大きく変わる出来事があった。その相手も同じく集団精神療法に参加した一人だったんだけど、おそらくこの体験がなければ、そのような人間関係の変化はなかったように思う(詳しくは書かないけど)。実は、僕はいろいろなことがあって、新しい人間関係を作ることに恐れを抱いてたんですよ。そして、人間関係を変える一歩を踏み出そうとしなかったし、踏み出して何か煩わしい出来事が生じるくらいなら、そうしないままでもいいか、って。

でも、変化した。これは偶然なのだろうか?

僕は、この変化は必然なのかも知れないと思う――僕がこのタイミングで集団精神療法に出会うことも、それを受けて人間関係が変化することも。僕はそういう人間関係の変化をずっと求めていたし、そのための後押しを求めていたし、変化を起こすチャンスを求めていた。I村先生も、今あなたがこうあるのも必然だと言っていたけど、世の中に偶然と思える数多の出来事も、大半は人間の意志が引き寄せた必然なのかも知れないな、と思ったりする(あっ、こんなところに『ひぐらし』の影響が…)。

なんか、すっかり自分語りをしてしまい、お恥ずかしい限りです。こんなのを読ませてしまい申し訳ない…。いや、あの時を思い出すと、どうしても素で文章を書いてしまいたくなって。無意識恐るべし。
んで、I村先生のどこが話のふり方が上手いのか、っていうことにちっとも触れてなかったんだけど、それは次のブログででも。前フリがすっかり長くなってすんません。


PS ネコパンチ

改心の一撃が炸裂しています。
  1. 2007/03/12(月) 01:02:31|
  2. 医学
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とりあえず近況報告

すっかり更新が停滞してしまっているばんじょーです。ごめんなさい。
近況を報告すると、
1/11コンピューターによる全国共通の医学試験「CBT」
1/17学校側が作成した進級試験「統一試験」
2/17実技試験OSCE
OSCEが終わったその日に、国試対策委員として、6年生の先輩方の医師国家試験の受験のお手伝いに仙台へ(国試は2/17~2/19だったんだけど、メインの仕事は試験前日に行われていたので、あまりお役に立てなかった気はしますが)。
6年生のみなさま、国試、本当にお疲れ様でした。

ちなみに、試験の結果は、おかげさまで、無事に合格しました。応援してくださったみなさま、本当にありがとうございました。

って喜んでるのも束の間、2月末日にマンション管理者から「マンション改築のため引っ越して欲しい」という連絡が。

なんだって~!?

しかもその連絡が郵便ポストに入ってるのに気づかず、あやうく転居の機会を逃すところであった。たまたま友人が気をきかせて(虫の知らせがあったらしい)教えてくれたからいいものを…。教えてくれたみなさま、本当にありがとうございました。
まぁ、転居は6ヶ月以内って書いてあるからまだ余裕はあるけど、出来れば時間に余裕がある春休みのうちに転居先を決めておきたいんだよね~。そうなるといい物件を新入生と取り合いにならなくて済むよう、秋田大学の前期試験の発表(3/7)の前に決めた方がいいわけで…。しばらく落ち着かない日々が続きそうです。
  1. 2007/03/04(日) 03:29:15|
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