続・晴耕雨読

東北在住のへっぽこ医師ばんじょーの日々思っていることをつづったブログです。週2回くらいの更新を目指しています。スパムコメント対策のため、 コメント時に画像認証をお願いしております。お手数ですがご了承ください。

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席取り合戦~フルーツバスケット的世界~その3

ハーバード大学の心理学者キャロル・ギリガンは、女性と男性の道徳観の違いについて、男性は抽象的な真実と公平性の原理にしたがっているが、女性は関係を守るために原則を飴のように変化させる、と述べているそうだ(リン・ホフマン『家族療法学』より)。

ギリガンは、心理実験「もし配偶者が重篤な病にかかったとき、ある薬が手に入れば治すことが出来るが、お金がなくて(多分借りることも出来ないという前提だと思われる)薬屋がその薬を売ってくれない。そのときあなたはどうするか」という質問についての答えが男女で異なるという指摘をしている。

男性は「盗みに入る」という回答をしがちであるのに対し、女性は「薬屋と話し合う」という回答をしがちだ、というのである。

男性は盗みより人の命が尊いという原則に基づいて論理的に行動しがちであるけど、女性は、盗むことで夫に軽蔑されたら盗んだ意味がなくなるから、今までの夫との関係性をなるべく維持するような解決策を模索していく傾向があるんだそうだ。

僕の席取り合戦の話もこれと似ている気がするんだけど、どちらかというと、僕は女性的な思考をしているのかしらん?

話を戻すと、結局、僕は次の日も早起きすることが出来ず、僕はかつての定位置を譲ってしまうことになり、でも僕は新たな定位置でもそこそこ人間関係を築くことができ(たと思う)、一応解決ということになった。

ただ、解決前に、僕はクラスにおける定位置とそれに伴う人間関係について悩んだわけだが、同じように僕が誰かの定位置を奪って、その誰かを同じように悩ませてる可能性もあると思うのだ。相手の人間関係を断ち切るような行動(親しい友達と仲たがいさせるとか)を自分がしていないかを振り返るのは、人間関係を円滑にする一つの方法だと思うんだけど、どうでしょうね?


PS ある哲学者の心の風景

その哲学者が誰だか分からないけど、綺麗な絵が並んでいたのでリンクさせてもらいました。こういう幻想的な絵は好きです。シュールレアリズム的な絵の構成はサリバドール・ダリ的だけど、テイストはホアン・ミロ(Joan Miro)的かも、って思いました。
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  1. 2006/08/27(日) 19:30:45|
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席取り合戦~フルーツバスケット的世界~その2

さて、少し昔の話になるんだけど、僕も定位置を決めるというクラスの慣習(があると信じているのだが)に従い、なるべく早めに学校に来て同じ場所に座り続けていた。4~5日その席に座って、そろそろ席が固定されたかな、と思ってその日は授業が始まるぎりぎり前の時間に教室に来たら、別の人が僕がそれまで座っていた場所にいたのである。

(あっ、やられた!)

ある程度時間が経つと、クラスの中で「この席はあの人の低位置だから座らない」っていう不文律が自然に出来てくる(ように思う)んだけど、僕の定位置に座っていた人は、最初の4~5日の間は訳あって学校を休んでいたらしい。だから僕の定位置だってことに気づかなかったんだと思う。

とりあえずその日はそ知らぬ顔で別の席に座ったんだけど、恥ずかしながら内心穏やかな気持ちではなくって。黒板が見やすい位置で、周囲の人たちとも打ち解けてきた(と僕は信じているんだけど)っていうのに、まさかここに来て別の人に取られるとは…。

これは明日からまた朝早くから来て席取り合戦をしなければならないんだろうか?相手もその位置を定位置にしたいんだろうから、僕が次の日に席を取り返したら、少し険悪な関係になるんじゃないのかしら?それでも自分の席であることを強く主張していくべきなのかなぁ?でも、そんな大人げない主張をしたら周囲の人に引かれないだろうか?なんてことを考えながら、授業を話半分に聞いていた。話半分に授業を聞いていたのは定位置が取れなかったからではなく単に僕のやる気がなかったというのはここだけの話。

でも、僕はここで一つのジレンマを感じる。自分は今ある人間関係を維持したいから今までの定位置に座りたいんだけど、ここでおおっぴらに席取り合戦を始めて周囲の人間から引かれたら、席を取ることで周囲との人間関係が変わってしまう可能性があるんじゃないだろうか。

(続く)


PS 熟睡ねこちゃん

動画です。ネコ、とんでもなく爆睡してます。最初死んでるのかと思ったくらい。ネコってやつは、寝てるのを見てるだけでも心がなごみますね。
  1. 2006/08/27(日) 18:48:15|
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席取り合戦~フルーツバスケット的世界~その1

今僕のいるクラスでは、大学であるにも関わらずほとんどの人がいつも決まった席に座っている。200席くらいある大教室に100人程度の学生が座るんだけど、座席の指定はないにも関わらず、誰がどこに座るかがいつの間にか決まってしまうのだ。

僕が前に通っていた大学では、大教室での授業の場合、僕を含めて学生は毎時間てんでばらばらに座っていた。まぁ、語学とかの、小教室で少人数で受ける授業では固定席になってたから、今の医学科のクラスの状態はそれと似た感じなのかもしれない。そういえば、高校生のときも座る机の場所は決まってたなぁ。違う点と言えば、高校や語学の場合は先生が生徒の座る席を決めていたのに対して、医学科の方は自分達で決めるというところだろうか。

自由に座っていい、って言われても、同じメンバーで同じ教室を使い続けると、次第に個々人の定位置が決まってくるのは、見ていて面白いな、と思う。なんか動物が縄張りを決めてるみたいだよね、って言うとクラスメートに悪いかな。もしかしたら定位置が決まってくるのは僕のクラスだけなのかも知れないけど。

位置なんてどうでもいいじゃん、っていう考えもあるかも知れないけど、親しくない人がたくさん周りにいるよりは仲のいい友達が周囲にいたほうが学校生活も楽しいし、近くにいるほうが授業やテストの情報をすぐに交換できると思うと、自分の位置や他のクラスメートの位置って重要になってくる気がする。逆に言えば、近くの席にいる人とは、情報交換する機会が多くなるだろうからなるべく仲良くしよう、と思うのは人情なんじゃないかと思うのである。

なので、新学期や新学年での席決めっていうのは僕のクラスでは重要な関心事なのである(って思ってるのは僕だけだったりして)。

(続く)
  1. 2006/08/27(日) 18:23:29|
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夏なので戦争責任について考えてみた

 先日池袋で高校からの友人と会って話をしてきた。もう一人の友人も呼んだんだけど、彼は現在行われてる世界バスケ選手権の取材のため翌日広島に発つとのことで、残念ながら会うことはできなかった。彼は今フリーランスのスポーツライターをしていて、バスケのブログを書いている。スポーツ好きの方なら、きっと面白く読めるブログだと思います。はよかったらのぞいてみてください。

 さて、彼とは仕事の話、縁の切れた人間関係の話から、戦争責任問題の話に行き着く。なんでそんな話になったかというと、僕がかつての大学時代のゼミの教授から見限られたって話から、その教授が左系で専門が社会史と戦争責任問題である、という流れになったからである。

 友人は、日本は戦争責任を果たしたことになっているのに、アジアの諸外国は相変わらず責任を追及するのはおかしいし、日本から賠償金を引き出そうとするのが目的に見えて不愉快だ、と言っていた。この考えは、多分大半の右系の人たちが持っている意見なのではないかと思う。

 (右系≒国家主義系、左系≒共産主義系と考えてるんですけど、この解釈でいいのかな。間違ってたら教えてください)

 戦争責任問題は非常にややこしい問題なので、とてもこのブログで扱いきれる内容ではないが、拙見ではあるが僕の考えを述べさせてもらうと、まずアジアの諸外国が賠償金目的であれ何であれ戦争責任を追及し、日本が完全に反論できないということは、そこに未解決の問題があるという認識をお互い持っているということを意味すると思う。戦争責任を果たすっていうのは、南京大虐殺、従軍慰安婦問題、731部隊など、人命を奪ったり人権を踏みにじったことについてしかるべき責任を取るってことだろうけど、じゃあどれだけ物資やお金を払えば奪った人命や人権に値するかっていう絶対的な尺度は世の中に存在しないと思うんですよ。人命に値段をつけるのは保険会社や裁判所くらいのもんじゃないかなぁ。あくまで当事者同士の合意によると思うのである。

 では、当事者同士で責任が果たされたかどうかの合意に達するためには、事実関係を明らかにすることが必要だと思うんだけど、おそらく日本が戦争時代に行ったことについての事実を明らかにするための努力ってあまりしてないんじゃないかと思う。例えば731部隊の所業(中国本土で行った人体実験など)についてはアメリカに実験データを渡す代わりに西欧諸国からは不問に付され、直接関わった研究者や軍人も裁かれずに今に至る(その系譜がミドリ十字であり、薬害エイズにつながるというのは皮肉な話である)のだが、それゆえに事実を明らかにすることはなく、中国人民に対してその責任を果たしているわけではなかったはずである。同じように日本が意図的に明らかにしない戦時の出来事はたくさんあるんじゃないだろうか。

 その諸外国に対する日本の反応は、まず謝罪をする→つっこまれたら「日本はすでに賠償金を払っている」という紋切りの対応に終始していると思う。これって、自分の子供が人を車で跳ね飛ばしたときに、相手方が「お宅の子供と話させてほしい」って言って来ているのに対して、「こっちはもう謝ったから、そちらがうちの子供と話す必要はない」って言ってるようなもので、相手にしてみれば何か隠されているという印象を与えるような気がする。そういうのって、言葉では謝ってるけど態度であやまってないように見える、さらに言えばコミュニケーションを拒絶しているように見えるんじゃないだろうか。

 言葉と態度が違うっていうのは、ある種の統合失調症(かつての精神分裂病)的兆候である気がする。そういや日本の戦争責任についての言明って、総理が謝罪したかと思いきや与党か野党の誰かが「日本には責任がない」って言って更迭されたりするっていうことの繰り返しであるように思う。これって、諸外国から見れば一貫性がないというか、むしろ何言ってるか訳が分からないっていう、ある種統合失調症的な言明が行われているように映るんじゃないだろうか。統合失調症が親とのコミュニケーション不全から生じるものだというのはG・ベイトソンの考えであるが、日本における戦争責任追求派と否定派という両親の不仲に引き裂かれた対外政治家という子供が統合失調症的言明を繰り返すというのが、日本の戦争責任問題をねじれた形にする構図だと思うのである。ちなみにウチダ先生は、日本国内で戦争責任追求派と否定派が分裂して相互に自己主張して争っているのが、ドイツの戦争責任処理と異なるところであると『ためらいの倫理学』で述べている。

 さて、家族療法では、引き裂かれた子供を治療するために、家族療法家がどのような治療を行うかというと、両親の間の秘密を公にするのである。母親が父親の陰口を父親に隠れて子供に言い、父親が母親の陰口を母親に隠れて子供に言うという家族の構図が子供の精神を病むというのがV・サティア女史およびリン・ホフマン女史(両者とも家族療法家)の主張であるが、親同士が直接言いたいことを言い合うというシステムを家族に導入するのが子供の精神症状を緩和するために重要なことである、という訳だ。「えっ、精神疾患って本人の遺伝とか性格によるものなんじゃないの」っていう方には意外に聞こえるかもしれないけど、家族システムのゆがみによって精神疾患の子供が作られるっていう考え方もあるんですよ。

 あらためて日本の戦争責任問題に話を戻すと、政治家を含めて、戦争責任追求派と否定派が直接意見を統合する公の場を作ることが問題の解決に近づく道だと思う。しかも、当事者がまだ生きているうちに。もし当時の記憶を残している人がいる間に戦争責任問題が解決しなければ、不完全な喪の作業を行ったってことで、アジア諸国に末代まで残る遺恨になるんじゃないかなぁ。それこそ、ウチダ先生が言うように、戦争での死者が“祟る”ということになると思うのである。

 さすがに呑みの席ではここまでの話はしなかったんだけどね。次に彼と会えるのは来年の春かなぁ。今年も半分過ぎたけど、お互い元気で来年も会いたいものですね。
  1. 2006/08/23(水) 23:24:37|
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世の中には知らないことがたくさんあるよね

先日、恩師コウイチさんにお酒をおごっていただいたうえ、終電がなくなった僕のために朝までカラオケに付き合ってくださった。お忙しいところ、本当にありがとうございました!

人間の価値観の枠組みはいかにして変わるかという話から、「セカンドライフ」の台頭といったネットコミュニティの進化の速さについて話をする。う~む、世界は知らない間に変化しているんだなぁ。先日某国立大学医学部のMさんと「医学科にいると日々の勉強に追われて時事ネタについていけないときがあるよね」なんて話をしてたんだけど、“どんだけ取り残されていたのかにわかに把握できないほど取り残されていた”ことをあらためて実感した日であった。とりあえず、世の中に取り残されないよう、『ウェブ進化論』(梅田望夫著)から読んでみようかと思った次第である。

さて、コウイチさんは僕の予備校時代の恩師で、5~6年前に予備校に入塾して以来の仲である。非常に頭の切れる人で、誰かと議論していて負けたのを見たことがない。議論に弱い僕は、なおさらコウイチさんに勝てないんだけど。でも、頭が切れるという以上にコウイチさんと話していて感じるのが、相手を理解しようとする態度なのである。

人を理解するときの方法として、相手の立場に自分を置いたときに、自分がどう感じるかを相手の気持ちに当てはめる、っていうのが大抵の人が取るやり方だと思うんだけど、それだとあくまで「自分がどう感じるか」という物差しで相手の感じ方を測ってしまうってことにならないだろうか。そこで相手と自分の物事の捉え方が違うと、「なんでこう感じないんだ?おかしいんじゃないの?」ってな感じで、相手との優劣を競うか、理解できないものとして無視するというところに行き着くんじゃないかと思う(大抵はどこかでうやむやになると思うけど)。

そこには、知らぬ間に自分の中に組み立てられている「人間とはこういう考え方をするものだ」像があって、その理想の人間像に相手と自分のどちらがより近づいているか、っていう比較を行ってるような気がする。

そうでなくて、相手には相手の中に「人間とはこういうものだ」像を持っていて、自分には自分の「人間とはこういうものだ」像があるってことを認識するのが、相手を理解することにつながるんだと思うのである。自分の住んでる世界とは別の世界があることを認め、かつそれをその形のまま理解しようとするのはすごい謙虚な姿勢だと思うんだけど(その一方で、ホリエモンがあらゆる価値をお金という尺度に変えようとする姿勢は傲慢だと思うけど)、僕がコウイチさんから感じるのはそういう謙虚な姿勢なのである。

三十路になって思うことは、ある程度自分の世界が固まってしまった人は、他人が自分とは違う価値観や尺度で生きているということを認めるのが難しくなるんじゃないか、ということだ。そこで自分を成長させようと思うときに、新しい価値観や概念を学ぶ上で必要なことは、そこに自分がかつて学んだ概念とは違うものが存在するという認識と、それを一から学ぼうとする謙虚さだと思う。英語が得意な人が、英語を学んできた方法をそのまま数学にあてはめようと思っても、多分どこかで無理が生じると思うし、逆もそうだろう。でも、何か新しいことを学ぼうとするときに、今まで国語を勉強してきたやり方を数学に当てはめて何とかしようとしている人って結構いるんじゃないだろうか。今までのやり方で限界が来たときに、その限界を乗り越えられるかどうかは、自分の知らないであろう世界に対する謙虚さを感じることができるかどうかにかかってると思うのだ。

ちなみに文化人類学者のグレゴリー・ベイトソンは「自分と違う世界があると認識し、それを学習しようとする態度」を身につけるためには、劇的な価値観の転換が必要なんじゃないかと考え、イルカを使って?その研究をしていた折、プールで溺死した。ベイトソンが生きて研究を完成させてたら、どんな結論が出たのか知りたいところである。

他人を理解するってことは、本質的には自己の成長とつながるんじゃないの、というのが今回の話でした。コウイチさんへ、コウイチ分析が間違ってたらごめんなさい。
  1. 2006/08/21(月) 22:11:35|
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ポストモダンダイエット

先日クラスメートと焼肉を食べに行ったとき、ある女の子について、僕が「ちょっと太めの娘」とコメントしたら、周りの3人から「えっ、その表現はデリカシーがないんじゃない?」というような感じの指摘を受けた(せめて「ふくよか」って言えよ、みたいな感じで)。むむむ、確かにデリカシーのない表現だった気がする。あのとき生ビール大ジョッキさえ飲んでいなければ…(←責任転嫁)。

 表現の仕方はともかくとして、その娘は柔道をやっているだけあって、かなりがっしりした体格をしているのだが、見た感じ、健康的な太り方をしている気がするのである。

 う~ん、こうやって「太っている」って表現を使うと、侮蔑しているように聞こえるかも知れないけど、別に悪意を持っているわけではないんですよ。ただ、寡聞にして、「健康的に体重が増加している」という意味に対応する日本語を知らないため、やむなく「太っている」という表現を用いているのである。というか、おそらく現代日本において、健康的に太るという概念はないのではないだろうか?(あったらごめんなさい)

 そういえば、ダイエットっていう言葉の定義も、「健康や美容のために、食事の量や種類を制限すること(大辞林第2版)」となってるんだけど、これって痩せることを前提にした意味づけがなされてる気がするんだよね。ちなみに英語で”diet”っていうと、「食餌療法(EXCEED 英和辞典)」っていう意味が主であり、適切な食事を摂ることを意味するとネイティブの英語教師に教わった覚えがあるのだが。おそらく現代日本では、太る=肥満=悪いこと、という図式が出来上がっていて、健康を維持するためには痩せていなければならない、という思想が定着しているんだと思う。

 僕は、痩せていることが社会的に正しいことと認識されるようになったことに異議を唱えるつもりはない。眉毛の形を細く整えるのがスタンダードになったことや、男は筋肉質よりスレンダー体型の方がもてはやされるようになった(と思われる)のと同様に、痩せていることは普遍的に正しいとか間違っているという議論の対象にならないと思うからである。

ちなみに、週間少年ジャンプの漫画の登場人物が、「きん肉まん」や「北斗の拳」といったムキムキの男たちから、「テニスの王子様」や「ワンピース」といったスレンダー系の男に変わっていったことに時代の流れや主に若年層の好みの変遷を見ることができる、というのはクラスメートの意見であるが、なかなか穿った見方だと思う。

でもね、いくら社会的に痩せることが正しいことだとしても、身体が痩せたくないと主張するときもあると思うんですよ。

 ウチダ先生は2004.11.3.のブログで(さらに詳しくは『街場のアメリカ論』で)、こう述べている。アメリカの貧困階級層が彼らの階級的怒りの表現であり、200キロを超える体重を誇示するのは、彼らが「豊かな食文化から疎外され、栄養学的知見から疎外され、効果的にカロリーを消費するスポーツ施設へのアクセスから疎外され、カウチポテト以外の娯楽を享受する機会から疎外されているという「被差別の事実」を雄弁に伝え」ようとしているからである、と。まぁ確かに、視覚的に強くアピールできている気はするよね。

 さて、このような階級的怒りとしての肥満は、本人が望んで選択したとは考えにくい。いくら自分が社会的に抑圧されているとしても、アメリカ人だったら言葉でアピールしそうな気がするしね(ウチダ先生も、本人が意図的に肥満になったとは述べていない)。むしろ、自分の置かれた社会的環境や立場からやむなくそうならざるを得なかった、とも考えられないだろうか。

 身体が無意識的に自分のおかれた環境や状況に反応するということは、僕はありうると思うんですよ。例えば、『物語としてのケア』(野口裕二著)には、プレッシャー(高血圧)は下層アメリカ黒人の間では社会的心理的重圧(プレッシャー)と密接に関係している、と書かれている。彼ら下層アメリカ黒人は、医師が食事の塩分を控えるように忠告してもそれを無視するという(ノン・コンプライアンスな状態が生じる)んだけど、彼らにしてみれば「仕事は食うや食わずで精一杯だし、子供は沢山いるけど部屋はせまいし、ポテチでも食わねーとやってらんないぜ。ってゆーか、減塩食とかいって値が張るから俺の給料じゃ買ってらんないしよぉ」ってな感じで、自分を高血圧に追い込んでるのは周囲の環境のせいだという考えが根っこのところにあるから、そのような状態を理解してくれないような医者の言うことなんざ聞いてられっか、ということになるんじゃないかと思うのである。

 これと同様に、ある種の肥満というのも、社会環境の中での自分の立ち位置を反映したものだと言えるんじゃなかろうかと思うわけで。自分が周囲から蹴落とされるんじゃないかと常に心配している人とか、ストレスにさらされている人って、知らず知らず口に食べ物を入れてたりして、いつの間にか太っちゃってる、なんてことがあるように思うんだけど、こういうのって生物的に「逆境に耐えられるように身体に栄養を溜め込んでおく」システムが働いている可能性があるわけで、逆に言えば身体が逆境にいることを敏感に感じ取っていると言えるんじゃないかと思うのである。

 そういう自分の社会における立ち位置とか人間関係の影響を考慮に入れずに痩せようと思っても、リバウンドがきたりしてうまく痩せられないんじゃないかな~、と僕は思う。「太っていることは正しくないし健康によくないから、このダイエットで痩せなければならない」というような身体へのダイエットの押し付けは、患者の社会的立場や職場や家庭でのストレスを理解しないまま、医者が患者に処方を押し付けようとするようなものなんじゃないだろうか。

 炭水化物ダイエットで痩せた人が多くても、自分は体質的に合わないって人もいるだろう。また、炭水化物ダイエットが体質に合ってる場合でも、身体の調子次第で炭水化物を摂ったほうが代謝が高まるときもあると思う。その調子っていうのは、自分を取り巻く環境や社会的状況によって変化すると思うんだけど、そういう刻々と変化する身体からのメッセージに耳を傾けながら、適切な食事を摂ることが大切なんじゃないだろうか。そして、身体をスリムにするために、自分が生活する環境や、自分を取り囲む人間関係をシンプルにすることも同時に大切なんじゃないかと思う次第である。

 ってことで、「身体が肥ってるから痩せよう」ではなく、なぜ身体が肥った体型になりたがっているのかを身体に聞いてあげるような、双方向性のダイエットを、僕はポストモダンダイエットと呼びたいと思う。そして、がむしゃらに痩せるよりも、自分の身体と相談しながら適正体重を探っていくっていうのが心身の健康にとって大切なんじゃないかな、と思うのである。

 ちなみに、僕は小太りなんだけど、多分これが自分の適正体重なんだとこの文章を書きながら自分で納得してしまったりして。自己弁護。
  1. 2006/08/16(水) 16:42:42|
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