続・晴耕雨読

東北在住のへっぽこ医師ばんじょーの日々思っていることをつづったブログです。週2回くらいの更新を目指しています。スパムコメント対策のため、 コメント時に画像認証をお願いしております。お手数ですがご了承ください。

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飲み会にて

先日都人会という、東京都出身者が集まる飲み会に参加してきました。軽い飲み会かと思いきや、自己紹介のたびに一気のみコールがかかるという、なかなかヘヴィな集まりでして。たいていは、例えば「自分は野球部です」って自己紹介すると、「やっきゅうぶ、やっきゅうぶ!」ってな感じでコールがかかって、その場にいる野球部全員が立ち上がって一気飲みをするという展開なのですが、僕の場合はいきなり苗字で一気コールがかかりました(同じ苗字の人がもう一人いた)。あれにはビックリ。まぁ、貴重な体験をさせてもらったわけです。
飲みまくりの激しい集まりではありましたが、いろいろな方とお話できて、楽しい時間がすごせたと思います。幹事の皆様、本当にお疲れ様でした。ありがとう!!

さてさて、そのときに今年の医学科の学士編入者と話す機会があったんだけど、現在の2年生(秋田大の学士編入は3年生として編入するのだが、前期は2年生と一緒に解剖実習を行い、後期から3年生と一緒に臨床の授業を受けるという形式になっている)には、一度大学を卒業してから秋田大に一般入試で入ってきた学生や他の大学を中退して入学してきた学生は1~2人しかいないそうである。4年次には10人近い再受験生がいることを考えると、とても大きな変化である。

ここ1~2年は、たまたま比較的若い人だけを採っているだけなのかもしれないから、若い人を採用する傾向が本当に出来ているのかは分からないけど、もしかしたら、一度大学を卒業していたり、会社勤めをしていた人で医学部入学を希望する人は、基本的に学士編入という枠で採用する、という流れが出来ているのかも知れない。

でも、秋田大は全国の国公立の医学部の中でもかなり年寄りに優しい大学だったので(この前は50代で国試に合格した学生さんがいたらしい)、その秋田で本当に変化が起こっているようであれば、全国的に変化が表れている可能性があるかも、という気がする。群大や筑波大の医学部などは、すでに若年化採用の傾向が顕著に現れてるようだしね。

でも、こ医師が若年化したとして、そのことによってどんな影響が医師内のコミュニティおよび医師と社会との関係に出るのかは予測がつかない(とりあえずは医師の耐用年数が増えることは想像できるけど)。が、変化が出るのは多分十数年、もしかしたら数十年後かな、という気がする。


あまり関係ないかも知れないけど、『ヤバい経済学』(スティーヴン・レヴィット著, スティーヴン・ダブナー著)にアメリカの犯罪率の減少についての分析が書いてあって、その原因として最も考えられるのは、警察の動員とか景気の上昇とかいった理由ではなくて、実は20~30年前にアメリカ各州で導入された妊娠中絶の合法化なんじゃないか、という指摘がある。

というのも、貧しくパートナーもいない女性が妊娠して、中絶することも出来ずに子育てをした結果、満足に教育も受けさせることができず、母親が自分の生活で精一杯で子供の面倒をろくに見れない(というか半ば虐待するような)状況で子供が育つことになり、そしてその子供は犯罪を犯す可能性が高くなるだろう。ゆえに、そのような不幸になることが予想される子供を生まなくてもいいという選択枝を女性が得ることが出来るようになった結果、犯罪が減ったのではないか、という分析である。

もちろん、犯罪が減れば中絶は認めていいのか、という問題は別にあるだろうけど(著者たちもその問題に対しては慎重にコメントしている)。

そういえば、ゆとり教育の功罪も、導入から数十年経たないと分からなかったなぁ。医師の若年化の傾向(政策?)も、どのような結果になるのかはかなり先にならないと分からないのかも知れないな、と思うのである。


PS
猫とニワトリの情愛の動画です。
Kitty & Rooster, Weird Friendship.

ほんわかします。
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  1. 2006/06/26(月) 01:45:43|
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映画ダビンチコードを観る(ネタバレにつき注意!)

サークル活動の一環?として、ダビンチコードを映画館に観に行った。
鑑賞後、「キリスト教の本部(バチカン)は金の受け渡ししかしてなかった」とか「ダビンチはそもそもあまり関係なかったんじゃないか?」といった辛口コメントが飛び交ったけど、僕としては面白く観れたと思う。

ストーリーを大雑把に言うと、ダビンチコードっていうのは聖杯伝説についての物語で、聖杯とは女性の子宮のことであり、キリストの血脈は女系の子孫(=聖杯)を残す形で現代まで保たれている、という話であるようだ。で、キリストの子孫が現代に残っているというのはキリストの神性を脅かすものであるから、キリスト教内のタカ派がキリストに子孫がいることを世間に知られる前にその子孫を抹殺すべく暗躍している、ってな話らしい。

「らしい」ばかり書いているのは、映画版ダビンチコードが細部をはしょりまくってるので(原作を読まずに映画をいきなり観ただけではしょりまくってる、って分かるくらいにはしょっていた)、映画と原作で解釈が同じかどうか自信がないからである。映画を観た限りだと、上記の解釈でいいと思うんだけど…。

ちなみに、同じサークルの”ダビンチマスター”F君に「今度ダビンチコードについてブログに書こうと思う」ってな話をしたときに少し険しい顔つきになったのは、「あの映画を観ただけでダビンチコードを語るのはどうかと思う」というメッセージだったのではないかと思ったりする。もちろん、神経内科&脳神経外科のテストの2時間前にそんなネタを振るなよ、ってメッセージだった可能性も否定は出来ないのだが。ちなみにF君に聞いたところ、原作と映画でかなり細部が違っているらしい。原作を読んだ方で、このブログに腹を立てる方もいるかもしれないが、何卒ご海容いただきたいと思う。


さて、話を戻して、キリストに子孫がいると神性を失ってしまうのは分かるにしても、なぜキリストが人間ではいけないのか?多分、キリストに世界を保護してもらう義務を負ってもらうために、人類がキリストに差し出した尊敬の念を表しているからなんじゃないだろうか。神としてのキリストに世界を秩序立てる権利を明け渡すことと、キリストにその代わり自分達の権利や安全を守ってもらうという義務を交換した結果のキリストの神性であるから、その神性を人類自ら否定するというのは、キリストに「お役ごめん」を伝えること、つまり神の加護を失うに等しいことなんだからだと思うのである。

例えば、キリスト(もしくはキリスト教の神)に明け渡した恐らく一番大きな権利として、人間は自らの命も他人の命も奪う権利があると思う。確かキリスト教って、他殺どころか自殺もダメだったと思うんだけど、そのようなルールなければ社会の秩序っていうのは大きく不安定になったのではないんじゃないかなぁ。あまり西欧文化に詳しくない僕がこんな風に分かったように書くのも僭越なのですが。

ゆえに、女主人公のソフィアが、最後に自分がキリストの子孫であることが分かったときに、自分がキリストの子孫であることを秘密にしておくような雰囲気をかもし出していたことも納得がいく。だって、ソフィア自身も社会が秩序立っていることの恩恵を受けているんだから。自己満足のために自分がキリストの子孫であることを公言するより、社会の安定によって自分と自分の親しい人間たちがこれからも安心に包まれた生活を送ることの方がペイすると直感的に感じ取ったのではないのだろうか。

もしソフィアが孤児で社会から迫害されていて、自分が目立って何らかの尊敬や羨望を受けるほうが、社会を安定させるより明らかに得になると判断すれば、結末は違っていたかもしれないな、と思う。

このように、集団がある種の権利を特権的な立場の人間(や神)に与えることで、自分達の安全をその特権者に保障してもらおうという取引については、レヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』で述べていることである。そして、熱帯に住む未開の部族や上記のキリスト教の話だけではなくて、現代の資本主義社会でもこのような取引は見られるんじゃないかと思う。例えば、自分はこの会社にこれほど忠誠をつくして働いているんだから、まさかリストラはされないだろう、と思っているサラリーマンとか(っていうとそういう方に申し訳ないですが)。これも会社に自分を捧げるかわりに、会社は自分を守ってくれるだろう、っていう取引が成立していることを期待している例だと思うんだよね。

そして、近年そのような家族的な会社は日本から姿を消しつつあるように見受けられる。なぜそのような流れが生じているのかは僕には分からないのだが、このような社会の流れ、すなわちこの家族的共同体が消え行くことによって、個人が容易に自分の時間と労力を提供できるような会社や組織を見つけるのが難しくなるということが起こるんじゃないだろうか。

だって、会社のために労力や時間を割いても、会社の都合でクビを切られたら、誰だって自分がそれまでやってきたことが無駄になるように感じると思うんだよね。そういう喪失感を味わいたくないから、能力や才能の無い者は新しい組織や社会に身を投じるということに対して、より逡巡するようになる気がする。そして逆に、どんな社会や組織でも通用するスキルを持ってると自負している人は、どこでも飛び込んでいけるだろうし、どこででも重宝されるようになるんじゃないだろうか。そう、持つものと持たざるものの間で、さらなる二極分化(階層化)が起こることが予想されるのである。


PS 「Huge Bodybuilder's Leg」という動画を見つけました。

ボディビルダーの大腿の筋肉を重点的に撮影しているのですが、ふ、太い…。

こんなに太い縫工筋ってなかなかないんじゃないでしょうか。大腿の筋肉の解剖の勉強に使えるかも知れません。
  1. 2006/06/24(土) 01:14:42|
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命は投げ捨てるものではない…

ここ最近、かなり眠い授業が続いてる。寝不足っていうせいもあるんだけど、先生がぼそぼそと抑揚のない声でしゃべるから聞いているのが主な原因なんだと思う。しかも、しゃべってる内容が配ったプリントに書いてあることとほとんど同じなんだよね~(たまにテスト情報をボソッと漏らすけど)。それなら自分で読んだ方が早い気がする。

その先生もお忙しい中準備をして授業に臨んでおられるのに、こんなことを書くのは申し訳ないと強く思っているのだが(っていうか大半の先生は、僕が講義を受けた感じとしては、ものすごい量の資料を作って、講義の内容も十分に練って授業に臨んでおられてます。日々の診察をこなしながらあれだけの講義を行えるっていうのはすごいことだと思う)、それにしてもあの講義を聞き続けるというのは、かなりの苦痛を伴う、っていうか命をすり減らしてる気がする。

ウチダ先生は『死と身体』の中で、「決まりきったことを教壇から聞かされることがどれくらい不幸なことかは、しゃべっている当人も聞かされている子どもたちもあまりわかっていない。でも、これはほんとうに根源的な仕方で人間を傷つけ、損なう経験じゃないかな」と述べている。つまらない話を聞くのは命をすりへらすような経験だから、睡眠=ある種の仮死状態に入り込むこと、によって苦痛をやり過ごしているんじゃないだろうか、というわけである。

うん、そう言われればそんな気がするなぁ。

興味を持てない話に無理やり耳を傾けるっていうのは、身体からの「不快な刺激から遠ざかりたい」っていうメッセージを無視したり抑圧したりしてるってことでしょ。しかも90分ほとんど同じ姿勢でイスに座りっぱなしっていう、生物的に不自然な体勢を強いられているわけだし。それはすなわちある種のストレス状態に置かれてるのに等しいわけだから、睡眠をとることによって身体の消耗を回復することを身体や無意識が選択しても不思議ではないように思うんですよ。




ちなみに、北斗神拳2000年の中で最も華麗な技を持つ漢トキもこう言っている。

トキ


(『北斗の拳』より)

「命は投げ捨てるものではない…」と。

ってことで、生物的に己を苦しめる授業に遭遇したときは、親から授かった大切な命を守るべく、自らにこの言葉を言い聞かせて寝ることにしているのである。

…不真面目であることは重々承知しています、先生ごめんなさい。



PS

バスケの動画を探してたら、こんなのを発見しました。

「35秒13点」

NBAのヒューストン・ロケッツのTracy McGradyの芸術的プレイです。まさかスラムダンクの三井みたいなプレーをNBAで観れるとは思わんかった。ビックリです。

  1. 2006/06/22(木) 02:06:38|
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構造主義的恋愛論~その6~

今回で構造主義的恋愛論も最後です。

フロムは、お互いのあるがままを認めることの大切さを説く。でも、それはそれで不安な面がある気がする。

「私、自分のやりたいことを見つけたの」
「僕も見つけたよ」
「う~ん、一緒にいながらお互いにやりたいことを追求するのは難しいね」
「う~ん、別れよっか…」
お互いの考えを尊重した結果、こんなことになりはしないだろうか。

多分、お互いのあるがままを認めるっていうのは、お互いが分離する危険を常にはらんでいるんじゃないかと思う。それでも、その不安に呑まれないように気をつけながら、いかに相手を認めつつそばにいることができるか、っていうことが大事なのだろう。そのような適切な関係を築こうと努力すること、それがフロムの言う「愛するという技術」なのだと思うのだ。

フロムは、多くの人が「愛されるための努力」をしているけど、「愛するための努力」をしていない、と言っているが、これは含蓄に富んだ言葉だと思う。一緒にいるにも関わらず、自分の都合で相手を変えようとしたり何かを無理強いしたりせず、相手のよさを認めようと自分を保つのは、すごいエネルギーが要ることだし、努力を要することだと思うんですよ。

ちなみに、フロムは『愛するということ』の中で、精神科医サリヴァンの考えを紐解きながら、以下のように述べている。

「愛の本質はふたりの人間が「われわれは、自分たちの栄誉と優越感と功績感を保つために、ゲームの規則に従ってやっている」と感じているような協同労作という状況のうちに見られるものである」

難しい表現だけど、おそらく何かの共通の目的をもって、お互いの接し合い方のルールを築きながら一緒に生活するっていうことを指しているんだと思われる。

フロム自身はこのようなチームワーク的な愛に対しては懐疑的であるようだが、お互いがお互いを締め付けあわず、かと言って離れ離れにならないための方法として、これもありかな、と思う。

実は、村上春樹が『そうだ、村上さんに聞いてみよう』で夫婦生活について読者に質問されたときに、夫婦のルールを決めてお互いに守るようにするのが大事、みたいなことを言ってたと思ったんだけど、サリヴァンと村上春樹が同じような恋愛観を持つというのは、興味深いことであると思う。


ということで、しまりのない終わり方になっちゃったけど、このシリーズはここで終了とさせていただきます。読んでくださった方へ、どうもありがとうございました。

でも、続き物を書くのはホリエモンに次いで2度目なんだけど、長編っていうのは流れに乗って書いてるときはいいんだけど、いざ終わりに持ってこうとすると難しいですね。作家が長編を書くのはすごいことなんだ、と素直に感心した今日この頃でした。

PS
おまけ「動いちゃう絵いろいろ
見すぎるとくらくらします…。
  1. 2006/06/20(火) 01:32:00|
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構造主義的恋愛論~その5~

更新が滞ってしまい、ちょくちょく訪問してくださってる方には申し訳ないです。久しぶりの更新です。

『そうだ、村上さんに聞いてみよう』(by村上春樹)に書いてあったんだけど、女性から「私のどんなところがいいか100個あげてみて」って言われたら、「なんでそんな子供っぽいことを聞くんだ」と答えるんじゃなくて、101個並べるのが男ってものなんだそうだ。そんなハードボイルドなところが村上春樹らしいと思う。

え?そんな風に女性から聞かれることが現実にあるのかって?知り合いのイブラヒモビッチさん(仮名・男)に聞いたところ、やっぱりお付き合いしている女性からそう聞かれたことがあるそうだ。彼曰く、いくつかストックフレーズを常に持っておくといいとのこと(優しいとか、気がきくとか)。ストックフレーズなんていうとこずるく聞こえるかも知れないけど、要は「いつ聞かれても大丈夫なように準備してる」ってことが重要だと言いたいんだと思う。


さて、恋愛論の続きをば。

フロムは"尊敬"を愛の要素として挙げている。尊敬の語源である「respicere=ながめる」に従って、人をあるがままに見、その特異な個性を知る能力が尊敬であり、相手がその人自身としてありのままに成長し、発達すべきであるという考え方を示している、と指摘している。

このフロムの指摘は得心できるものだと思うんだけど、ここで一つの疑問がある。自分を尊敬できない人間が、他人を尊敬できるのだろうか?

カール・ロジャーズは、カウンセリングの際には、カウンセラー自身が感じていることを大切にしろ、と主張している。というのは、クライアント(患者)の言うことを鵜呑みにするのは、逆にクライアントに警戒心を抱かせてしまうからであるらしいのだ(でも相手の存在自体は無条件で受け容れるのが大切であると主張しているところがロジャーズの面白いところである)。

自分が本音を打ち明けたら、相手にも本音を打ち明けて欲しいと思うのが人情だと思う。そして、本音を打ち明けたときに自分の本音に無理に同意してくれるより、たとえ同意してくれなくても相手の本音が聞けた方が、相手に好意を抱けて、人間関係はむしろ良い方向に転がるんじゃないか、というのが(大雑把に言うと)ロジャーズの主張するところだと思う。それを実践するのは難しいことだとは思うけど。

さらに、自分が今感じていることを無理に抑え込んで「相手の言うことを正しいと思うようにしよう」っていうのは、自分の本音を出ないだけでなく、自分のあるがままを否定している、すなわち尊敬できていない、ってことなんだと思う。そうやって一種の自己否定が続くと、相手に対する無意識の嫌悪感みたいなのが出てきて、それはいつしか相手に伝わることになってしまう。身体から出てくるメッセージって、なかなか隠せないものだと思うんですよ。そしてそれって、自分の身体が相手を否定してるってことなんじゃないだろうか。

結局、自分のあるがままを否定することは、相手の否定につながってしまう。逆に言えば、自分のあるがままを認めることが相手のあるがままを尊重することにつながるし、そうやって相手が相手らしくあることを認め、称えることが愛するってことなんじゃないの、っていうのがフロムの言うところの愛なんだと思う。自分を愛するっていうのは、その第一歩としての行為なのである。

簡単に言うと、「自分色に染めたい」とか「染められたい」っていう依存的な付き合いはお互い負担になるし、お互いのためにならないよ、って話で、無理やり相手色に染まっても相手はあんまり喜ばないかもよ、って話でした。でも、お互いに影響し合わないってのもつまらないんじゃない、って意見は当然あると思うんだけど、相手を尊重しつつ自分色に染まって欲しい場合は、「染まって欲しいけど、染まるかどうかはあなたに任せるよ」っていう感じの控えめな恋愛の方が、強攻めよりも長続きするんじゃないでしょうか。



PS 全然本文と関係ないけど(またもや観念奔逸)、ズラタン・イブラヒモビッチはスウェーデン代表のサッカー選手だそうです(決して吊るし肉をサンドバック代わりに殴ってません、ってこのネタが分かる人ってどれだけいるんだ?)。イケメンです。
下のサイトで活躍シーンが観れます。
FCズラタン
たまにリンク切れになってる動画もありますが、根気強くクリックすると華麗なプレーが観れると思います。
  1. 2006/06/19(月) 06:21:36|
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