続・晴耕雨読

東北在住のへっぽこ医師ばんじょーの日々思っていることをつづったブログです。週2回くらいの更新を目指しています。スパムコメント対策のため、 コメント時に画像認証をお願いしております。お手数ですがご了承ください。

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構造主義的恋愛論~その4~

『愛するということ』(ユーリッヒ・フロム著)の中で、哲学者(心理学者でもある)フロムは、フロイトの言葉をこう引用している。

「恋に陥るということは、いつも、正常ならぬ状態にかたむかせるものであり、常に現実に対して盲目となることや、強迫的な傾向をともな」うものである、と。

まぁ、フロム自身は、このような恋と本当の愛は違う、と同書の中で言ってる(と思う)んだけど、こと恋に落ちるということについては、フロイトの言うことに一理あるかも知れない。

多分、フロイトは病的な人たちが陥る特殊な恋の形について述べているのではないと思う。彼の主張していることはおそらく、恋愛は
「相手に気に入られるためには、周囲の目とか評価なんて気にしちゃいられない」
って誰しもに思わせてしまうという性質を持っている、すなわち恋愛は構造的に人を盲目にさせる、ということなのである。

例えば、周りの人の気分を逆撫でしてることに気づかずに人前でいちゃいちゃしてるカップルがいると思うんだけど、そういういちゃつくカップルを見ているときって、「あ~、やだやだ、自分が誰かと付き合うときはこんな見苦しいまねはしたくないね~」って多分思うんじゃないだろうか(もしくはうらやましい!って思うのかも知れないけど)。

でもね、おそらくいちゃつくカップルだって、付き合う前は他の人と同じように「いちゃつくカップルうぜ~」って思ってたんじゃないか、って気がするんだよね。

多分、周囲が見えないカップルっていうのは、お互い誰かと付き合う前から一貫して(異性と付き合い始めたら周囲なんて気にせずいちゃついてやろう)って思ってるんじゃなくて、付き合い始めてからいつの間にかそうなってしまったんじゃなかろうか。

これって、好きな人に気に入られたいことばかりが気になって、周りが見えてないって状態だと思うんだけど、逆にもし冷静に「自分にとってこの状況はプラスになるか」と考えたとき、周りの冷たい視線に気づいたら、とても二人の世界には入れないと思うんですよ。

これがフロイトの言う「現実に対して盲目になる」ってことだと思う。

ちなみに、本当に好きじゃない人となりゆきでデートしてるときなんかは、「こんなところを他人に見られたら困るな」なんてデート中にもきょろきょろしたりとか、妙に距離をおいたやりとりとかしちゃってたりするよね。これはむしろ惚れてないからこそ自分が周りからどう見られているか、とかに気を配れることの証左だと思うんだけど、どうでしょう?

ここからちょっと小難しい話をば。

現実に盲目になるっていうのは、「大好きなあなたのためなら自分はどうなってもいい」とか「あなたのためなら何でもできる」って感覚に近いんじゃないかと思う。

でも、相手に惚れるっていうのは、相手に弟子入りする構造と同じ、すなわち自分が主体的に動けなくなる=相手にとらわれるっていう要素を含んでるものである。そこに自分を見失い、本来は出来ているような「自分の立場を守るために周囲の目に気を配るという行為」が出来なくなるという可能性を常に含んでいると思うんだよね。自分をコントロール出来ている状態(つまり自分の意思で主体的に行動できる状態)なら、自分の不利になるような状態(社会から冷たい視線をあびるような状態)に身をおかないだろうからね。そして、自分のコントロールをある程度失ってしまう状態、それがおそらく現実に盲目になるという構造だと思うのである。

でもね、それが度を越すとどうなるのか。「自分はどうなってもいい」という人間と付き合うことって、果たして喜ばしいことなんだろうか?いや、異性からそう言われたら最初はきっと嬉しいんだけど、関係を続けていくときに不安にならないだろうか?「この人、何考えてるんだろう」って。このような「自分はどうなってもいい」的恋愛が続くとある種の病的恋愛構造になるんじゃないかと思うけど(そしてそこに狂気の芽をはらんでるのかも知れないね、あなおそろしや)。

僕は、自分を大切にすることと相手を大切に出来ることは密接につながってると思う。そしてそれがフロムの指摘する「他者への愛と自分自身への愛は二者択一ではない」ということだと思うんですよ。その話はおいおい展開していくということで、今日はここまで。


PS 「どうでしょう」で思い出したけど、水曜どうでしょうの動画を見られるサイトを発見したので、リンクを貼ります(←観念奔逸状態ですな)。旅ものとして、面白いですよ。&ツバサ君、薦めてくれてありがとう!

『ユーコン川160キロ』

リンクが切れるかもしれないので、興味のある方はお早めにどうぞ。

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  1. 2006/05/30(火) 02:50:58|
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構造主義的恋愛論~その3~

ドラマや小説で、別れのときの切り出し文句で
「私、あなたが何を考えてるのか分からない」
っていうような言葉を聞くことがあると思う。で、この言葉を女性から言われた男性は、表面上は落ち着いて「おいおい、何言ってるんだ」なんて言いながら、(やべぇ、浮気がばれたか?)とか思って内心あたふたしちゃったりする、なんてシーンを見かけたりもする(なかったらごめん)。

でも、このような言葉が別れの切り出しに使われるのは、多分字面どおりに「あなたの考えが分からない」という意味だけではないんだと思うのだ。っていうか、相手の考えを完全に理解するのは無理だろうから、考えが分からないのは当たり前のことで、むしろこの言葉は、「あなたの考えが分からないなりに理解しようとしてたけど、もう興味なくなっちゃった」という宣言なんじゃないだろうか。ってことは、言われた側にしてみれば、前回のブログに書いたような、「師弟関係」でなくなってしまう、すなわち相手に対する主導権を失う=相手をコントロール権利を失うということで、まぁそう言われりゃあたふたもするわな、って思ったりする。

ちなみに、相手の心の法則に主導権を握られつつ、もしくは主導権を握ったり握られたりしながら恋愛が進行してくんじゃないかと思うんだけど、そのうち「この人がプレゼントしてくれたときはいつも喜んでたけど、実はプレゼントの後でいつもなんか頼みごとしてくるのよね~」なんてふうに相手のことを見透かせるようになってくると、相手に対する興味も薄れてきたりして、マンネリにつながったり、「あなたが何を考えてるのかわからない(実は何を考えてるか分かってるんだけど、もう振り回されたくない)」的シチュエーションになったりするのかも知れないな、と思ったりする。

まぁ、マンネリ化の話は置いておいて。

さて、惚れるという話に戻るが、恋愛というのは、ある種の構造的狂気をはらんでいるんじゃないか、と思うのである。
  1. 2006/05/22(月) 03:38:26|
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構造主義的恋愛論~その2~

『死と身体』(内田樹著)の中に、人が弟子入りするということについての文章がある。どういうものかというと、自分の目の前にいる人が、「自分にはルールのわからないゲーム」をしている、または自分には輪郭が見えない英知を蔵している、と考えられる。そして、その分からないルールを理解したいと思ったとき、師弟関係というものが出来るのだろう、ということである。

例えて言うと、ある人が女性付き合いが下手で、話をしてても緊張して上手くしゃべれない、なんて男性がいたとする。で、その人の先輩にナンパの達人がいて、どんなシチュエーションで、相手がどんな性格でも、あっという間に話を盛り上げて仲のいい関係になることが出来る人がいたとすると、その後輩の男性が「これだけ高率で女性といい感じに話せるってことは、何か先輩の中で女性と仲良くなる法則(ルール)があるに違いない。それを知れば僕ももてるんじゃないか?」と思ったときに、「先輩、これからは師匠と呼ばせてください!」ってな話になるんじゃないかと思うのである。

これが恐らくウチダ先生のいう師弟関係の構造であるが、ウチダ先生はさらに、このような師弟関係においては、弟子は必ず負けるということを述べている。どういうことかというと、相手の出方が分からないが、相手のことを知りたいと思うとき、弟子は師匠の「後を追う」、すなわち常に師匠の後手に回るというポジションにつく。それって、弟子的には、とりあえず師匠のやることを真似したり、師匠の言ったとおりに振舞ってみようか、ってことになると思うんだけど、そこに弟子の主体性とか自由な意思はあるのか?って考えたとき、自分が思ってもいないことを強いられるという位置づけにある限り、弟子は「負け」の立場にいると思うのである。

でも、そうやって弟子は師匠のルールに則って行動していくうちに、そのルール自体を把握していくという学習の経緯をたどるんじゃないだろうか。

さて、ウチダ先生は、この話を武道に絡めて書いているが、これは恋愛にも敷衍できる考えだと思う。
相手の女性は何か本人にしか分からない行動原理に則って行動してると思われ、そして自分は彼女に興味を持っている。で、彼女が「プラダのバッグが欲しい」と言ってきたときに、彼女の行動原理は分からないが、とりあえずその行動原理を知るためには彼女の要求を呑むしかない、と考えたときに、相手に交際関係の主導権を握られてしまう、つまり「負け」てしまうんじゃないんだろうか。

それが構造的に惚れた側が負けるということであるんだと思う。だから、「どうしても相手の言うことを聞いちゃうのよ。私ってダメね」なんて人がいるかも知れないけど、それは私がダメというより、惚れるっていうのはそういうことなんだ、って考えたほうが対策が立てやすいのかも知れない。

  1. 2006/05/22(月) 03:07:27|
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構造主義的恋愛論~その1~

今朝、クラスメートと1on1のバスケをやってきました。いや~、身体を動かすっていいですね。ブランクがあっても、結構フリースローって決まるもんだな、とちょっとビックリ(成功率80%)。
そういや、クラスメートがシュートを打つ前に、ちょっとのけぞってためを作ってから打ってるのを見て、僕も試しに同じようにやってみたら、3ポイントシュートが難なく届いて(数本のうち1本入りました)ビックリ。背筋って、腕の筋肉に比べるとかなり大きな力が出せるんですよね。そういや、古武術バスケのビデオを授業で見たときも、みなさん背筋を使ってたなぁ。全身の力を使うっていうのは大事なんだな、と思った次第です。


さて本題。

僕は恋愛論ってのが好きで、数年前はよくその手の本を読んだり、さんまの「恋のから騒ぎ」を見てたりした。その知識が役に立ったかって?ん~、ノーコメントってことで。ちなみに、今日バスケを一緒にやったクラスメートと、「恋のから騒ぎ」に出てくる恋愛のケースは果たして一般的なものとして考えていいのかって話をしたのだが、あれは個々の症例はどちらかというと特異的だけど、50症例くらいを抽出して頭の中で平均的な恋愛のロールモデルを割り出すといいんじゃないのか、ってなことで話が落ち着く(ほんとかよ!?)。

さて、恋愛論の中で、「惚れた方が負ける」なんて話がよく出てくるけど、それは確かに分かる気がする。ここでいう「負ける」っていうのは、相手の要求をそのまま呑んでしまうとか、自分にも言い返したいことがあるんだけど、でもどうしても相手に主導権を握られてしまう、ってなことを言うと思うんだけど、例えば、「ヴィトンのバッグを買って~(って、古いか)」なんて言われたら、

(あっ、ここでケチったら嫌われるかも)

って思うと、ホントは自分用に20インチプラズマテレビを買いたかったんだけど無理してバッグを買ってあげたり、それ以外のわがままを聞いてあげたりする人っていると思うのだ。こういうのって、惚れた方が負けの典型例じゃないかと思うんだけど、それにしても、惚れてても毅然と相手の要求を突っぱねることは出来ないのだろうかねぇ?

僕はそれはおそらく難しいのかな、と思う。というのも、恋愛において惚れるという立ち位置は、必然的に負けるという構造が成り立っていると思うからである。



  1. 2006/05/22(月) 02:28:43|
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社会環境と自己分析~今日も長文でごめんなさい~

寝酒を飲みながらブログを書いてます。酒を飲んでいたときに知人としていた話を思い出しながらブログを書こうと思ってるんだけど、酒をのんでいるときに覚えたことは、酒を飲んだときに思い出しやすいと心理学的に言われているもので。

なんちゃって、実はただ酒が飲みたかっただけなんですけどね。責任転嫁?してごめんなさい。

ちなみに、麻薬をやっているときに覚えたことは、再び麻薬をやったときの方が思い出しやすいとか(僕はやってませんよ)。このような実験結果は、G・ベイトソンが『精神の生態学』で言っていた、学習する文脈を学習する、すなわち動物は勉強する環境と1セットで物事を学習する、という話に通じるものがあるのかもしれない。だから、試験勉強するときは、試験会場に似た場所ですると当日思い出すときに効率がいいのかも知れないね。

「知れないね」なんて、投げっぱなしですみません。



さて、ここから本題。

先日恩師コウイチさんと、予備校の同期である&ツバサ君(ミドルネーム"不機嫌")と酒を飲む。コウイチさん、いつもごちそうさまです。

その席で、コウイチさんと自己分析について話をする。自分がどういう性格で、どういう好みを持っているのか、ということはどうやって分析するんですかねぇ、と聞いたところ、コウイチさんは「自分が何者であるかは社会との関わりの中で知るものなのではないか」とおっしゃっていた。

確かにそうだ。例えばロビンソン・クルーソーが「消防士になれる適性を持っているか」とか「思いやりのある人」であるかどうかを判断するのが難しいように、他の人間との比較なしに自分が何者であるかを知ることは難しい気がする。

他の人間と比較して自分を分析するという行為は、イメージとしては、自分が直接知っている人や、ニュースや新聞で見聞きした周囲の人間像をまとめて、その平均値と比較して、自分は「別にそこまで話は上手じゃないけど、ノリはいい方でみんなとわいわい騒ぐのが好き」とか、「人並みにサッカーは上手いけどプロにはなれないな」といった自分像を割り出すという行為に近いのかもしれない。

ここで書いた自己分析の方法って、周囲の環境の中で自分のポジションがどういうものかを位置づける行為でもあると思う。おそらく、上の例での「ノリがよくてわいわい騒ぐのが好き」というパーソナリティは、飲み会とかでハジケられる自分を発見したり、友人が「お前、今度の飲み会で新入生相手の盛り上げ役を頼むわ」なんて言われたりしてるうちに、ああ、自分が住んでいる社会や環境の中では、自分ほどノリがいい人は比較的少ない=自分はノリがいい方だ、ってな具合に形成されていくものなんじゃないだろうか。すなわち、自分の性格や趣向っていうのを分析するには、自分がどういう環境にいて、どういう位置づけにあるかの分析を含めて行われるんだと思う。

ウチダ先生が2005.2.28.のブログ"「自己アピール」って何ですか?"で就職活動における自己アピールとは「自分がこの社会の中のどのポジションにいるのか、それをできるかぎりわかりやすく記述するということである」と述べておられるが、まさにそうだと思うのである。

上の例をまたまた使いまわすと、「ノリがよくてわいわい騒ぐのが好き」というパーソナリティは「飲み会で盛り上げ役を必要としているときに、その役を務めることが出来る」パーソナリティと言うことが出来るだろう。そしてさらに、飲み会というコミュニケーションの場がある環境においては、自分はその場で必要とされる役割を引き受けることが出来る、と言い換えられるだろう。


ちなみに、これは逆に言えば、飲み会でノリで騒げるけど、しっとりとした飲み会で語りに入って人を魅きつけるのはどっちかっていうと苦手(どっちも出来るよ、って人もいるかも知れないけど)っていうことを表しているんじゃないかと思う。このような不得手なものっていうのも社会との関わりの中でだんだんわかっていくことで、このように自分が不得手であることを社会によって強制的に認識させられることを、精神科医の斎藤環は精神分析の用語を用いて「去勢体験」と言っている(by『社会的ひきこもり―終わらない思春期』)。これはすなわち、自分には能力的な限界があるって思い知らされることらしいんだけど、引きこもりっていうのは、そうして他者から能力の限界を思い知らされるのが苦痛で(例えば学年で最下位の点数を取ったり、飲み会で一人で隅っこにいる羽目になっちゃったりとか)他者との接触をやめるようになったんじゃないか、と斎藤氏は述べている。でも、そのような去勢体験を癒してくれるのは、やっぱり他者しかないのである、と言っている。だって、あなたに得手がある(「お前は語りは得意じゃないけど、ハジケられるから飲み会の時はいいよな」)と直接的なり間接的なり言ってくれるのは、他者しかいないからだ。


ということで、就職活動というのは、自分が過ごしてきた環境の中でどういう役割を担っていたかを人事の人に説明して、そういう役割の人を必要としていれば会社は採用し、そうでなければ採用されない、というプロセスである、というような帰結をウチダ先生は持ってこられていたが、うん、確かにそうなんだろう。

「そうやってアピールした自分のポジションが、第一志望の会社になければどうするんだ?飲み会を全くやらない会社で、飲み会で盛り上げられる性格です、なんてアピールしたら落とされるんじゃないか?」って考えがあるかもしれないけど、う~ん、多分そういう人は、その会社に行かない方がいいんじゃないかなぁ。いくら行きたいと思った会社であっても、自分を活かせるポジションがなかったら、本人も会社もお互いに不幸だしねぇ。

なんて、就職活動をしている学生さんの気持ちをさかなでるようなことを書いてすみません。いや、別に適当にこの文書を書いてるわけじゃなくて、僕も8年くらい前に就職活動をしてるんですよ。散々不採用通知をもらったけど、そのときの自分を振り返りつつ、あぁ、自分がどんな社会的ポジションを担っているかなんて考えずに就職活動してたなぁ、なんて思いながら書いてるわけです、はい。

ということで、自分を知るためには自分の中にだけ目を向けるのではなく、自分がどういう環境でどういうポジションにいるのかということにも目を向ける必要があるのだと思うんだけど、実は自分がどういうポジションにいるかというのは、自分がどういうポジションにいたいか、という欲望の色眼鏡によって解釈が歪んでいる可能性がある。例えば自分より飲み会でハジケられる後輩が入ってきたら、「こいつはたまたまハジケられてるけど、まだ俺と比べたら場の雰囲気を読みきれてないな」なんて値引きして解釈してしまうように。これはフロイトの言う投影の概念に近いものがあるだろう(ある心理分析の本では、「同化投影」と名づけていた)。多分スキーマと言ってもいいと思う。

実はコウイチさんの言う自己分析というのは、この「自分を取り巻く世界の解釈の仕方」を含めたものを指していると思う。そして、「自分がしている世界の解釈の仕方」と「他人がしている世界の解釈の仕方」との違いに気づくことが、より他者を理解できる方法、言い換えると円滑なコミュニケーションを築くのに役立つのではないかと思うのである。



ウワァ、最後にとんでもなく飛躍したオチをつけちまった、すんません。まぁ、別に今までの話をちゃぶ台返しした訳じゃないとは思うけど…。ちなみに、この「世界の解釈の仕方」が人間同士似通ってるから社会が成り立つってのが、池田清彦が「構造主義科学論の冒険」で言及しているフッサール解釈であり、個々人の世界の解釈を共同化したものが共同幻想であるというのが岸田秀の考えだと思うんだけど、まま、適当に読み流して下さいまし。



PS.コウイチさん、
FTEXT
http://www.ftext.org/
にリンクを貼らせていただきました。これからもよろしくお願いいたします。
しかも、右上の「えふてき」の文字をクリックしたらメインページに飛ぶようになってますね。ありがとうございます。すごく使いやすいですよ。


  1. 2006/05/18(木) 00:41:03|
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否定のエートスを受け継ぐ者

友人でよく僕の言うことを否定してくる人がいる。「どうせ出来るわけがないよ」とか「どれだけ難しいかわかってるの?」とか。
理詰めでいかに僕がしようとしていることが難しいことであるかを説いてくるので、言い返すのが結構大変だったりする。

まぁ、未来を確定的に予測するのは難しいので、ある物事について「出来る」という予測も「出来ない」という予測もどっちもありうることであろう。ただ、僕は「出来る」という未来予測(というか信念)をもって物事に当たったほうが出来る確率は高まると思うので、逆に「出来ない」という予測を立てた時点で、「出来る」と予測を立てた場合より、その物事を成す確率は落ちるんじゃないかと思うのだ。すなわち、予測を立てること自体が、その後の物事の成り行きに影響を与えると思うのである。

えっ、本人に実力があれば、周囲がどうであれ、誰がどんな予測を立てようとも、何かをやろうと思ったら成し遂げられるんじゃないか、って?

僕も以前はそう思ってたんだけど、環境による影響って思うよりも大きいんだろうな、と最近思うようになってきた。周りに高学歴の大人がいなくて、友達も進学にはあまり興味がなくて、家庭があまり裕福でなくて「塾に行かせる余裕もないし、勉強するよりバイトして家計を助けてくれ」というような家庭で、子供が「東大や早慶に入ろう!」と考えていたとしても、難しいのかもしれないな、と思ってしまう。もちろんそういう家庭の子供で東大に入る子供もいると思うが、それは世間ではある種の美談に入りそうな話で、どちらかというと、親が子供の勉強に対して協力的で、親自身も高学歴で勉強の仕方を知っている家庭の方が、子供が受験で偏差値の高い大学に入るのには有利に働くのではないだろうか(失礼なことを書いていたらすみません)。

文芸春秋の4月号の"ルポ下層社会"という記事に、低所得者層の子供は学力が低いという指摘があり、さらに高所得者層は高学歴の人たちが比較的多く、さらに高所得者層の子弟が比較的高学歴の大学に入学しているというデータが『階層化日本と教育危機』苅谷剛彦著に記載されていたと思ったが(うろ覚えなので後日確認します)、それらの情報を考慮すると、あながち間違った考えではないと思うのである。

そう、周囲の環境が自分に影響して、自分の将来を決める要因になることは十分にあると思うのである。

でも、他人がどうであれ、自分がしっかりしてさえいれば夢はかなう、っていう考えも一方で世の中には存在するよね。

確かに、周囲の反対や逆境に負けず、自分の夢を現実に出来る人っていうのは、はたから見ていてカッコいいと思う。ただ、それが目立ったりカッコいいと思えるのは、逆に世間においてレアな存在だから、つまり通常は周囲の反対に屈する人が多いから神聖視されるのかもしれないな、とひねくれ者の僕は思ってしまうのだ。

さて、自分に影響を与える環境というのは、都会か田舎かといった地理条件などもあるとは思うが、僕は人間関係からくるものが大きいのではないかと思う。恩師から勧められた本の中に、ツイている人はツイている人といっしょにいたがり、ツキのない人はツキのない人同士集まる、と書いてあったが、これは運とかツキだけに限らず、同種の人間がコミュニティを築くというのはよくあることなのではないかと思う。僕も、医学部に入ってから、同じ医学生や医者に対してなんとなく親近感をいだいて、いろいろな人間が集まる場所でも、他の業種の人たちとコミュニケーションを取った方がいいとは思いつつ、医学生同士で固まってしまっていたりする。

関連する話で、ホリエモンが、大学へ行くのは人脈を築くためだけだ、というようなことを確か言っていたように思う。確かに、あ~、あなたも東大出身なのね、僕も実は東大出身なんだ、あそこの校舎、ボロかったけど、建て直さないのかねぇ(何度も僕はそこの校舎を使ってるんだよ、あなたと私は同じような人生のバックボーンを持ってるんだよという裏のメッセージがこめられているはず)、なんて会話が出来れば、その後の交渉も上手くいきやすいだろう。そういう点で、ホリエモンの指摘は一理あると思うのだが、何の共通点もない人同士よりは、性格が多少合わなくても同じ学校出身の人たちの方がある程度集まって話をしやすい、というところがあると思うわけで、ゆえに高学歴の人がある種のコミュニティを築いてその子弟が高学歴の精神を受け継いで高学歴を得るという、文化的再生産が起こるのではないかと思ったりする。

ごめんなさい、話が飛んでしまいましたが。

ということで、雀士同士が集まったり、芸術家同士が集まったり、ってな話と同様に、「努力すれば物事はかなう」「何をやっても人生真っ暗だ」とかいったような、世界の解釈の仕方が同じような人同士も集まり、相互に影響を与えるのではないかと思うのである。

岸田秀は「ものぐさ精神分析」で共同幻想が私的幻想に影響を与える、すなわち集団の物事の考え方が個人の物事の考え方を左右するということを書いている。朱に交われば赤くなる、ってやつだと思うけど、何かやりたいことがある人は、同じように前向きに何かをやり遂げようとしている集団、もしくは人間関係の中にいた方が、そうでない場合よりも周囲からインスパイアされて、何かを成し遂げる確率が上がるのではないかと思うのだ。

ってことで、何かを成し遂げるためには、自分ひとりの力では難しく、応援してくれる人たちの力が大きいのだろうと思うのだ。世の中で成功したと言われる人たちが、「自分ひとりの力ではなく、周囲のみなが支えてくれたおかげです」なんて言っているのを見ると、そのとおりだなぁと肯首するのである。

で、最初の話にもどると、本当に実力があったとしても、誰かに否定されるだけで萎えて何かを成す確率が下がるんじゃないかと思うわけで。で、その友人に否定されると、その否定された分だけ、マイナスの未来予測が入ってきてしまうので、なかなかその友人には「将来こういうことをやりたい」ってな話はしづらいんだよね~。問題なのは、彼の否定をさらに否定すると、言葉では否定するけど、彼の否定の態度を真似してしまう、すなわち彼の世間に対する態度を僕も態度で受容してしまうってことなのである。彼の言葉を受け入れても自分は否定され、彼の言葉を否定しても「否定の精神」を受け入れてしまうということで…。ややこしくて申し訳ないが、彼は、そんなダブルバインドを仕掛けてくる、なかなかのツワモノである。そして、他者を否定するということは、かくも恐ろしいものなのである。


(実は、上記で、未来予測が将来に影響を与えると書いたが、逆に自分の心理分析がある種の未来予測を含むとすれば、分析すること自体が心の状態を変えてしまうことになるのではなかろうかと思うのだ。量子力学の不確定性原理と同じ感じだろうか。じゃあ、自分の心の状態をどうやって把握するのか?僕が思うに、正確に把握は出来ず、ある種のスキーマをその時点の精神状態にぶつけて、どのように心が揺れ動くのかを感じ取って、そこからかつての自分がどのような心理状態にあったかを事後的に把握するしかないのではないか、と思うのである。が、これは行き過ぎた推測だろうか?)
  1. 2006/05/06(土) 23:38:47|
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AIDSと認知的不協和(後編)

確かにそうなんだろう。確か永井明の『ぼくが医者をやめた理由』に、アル中の患者さんにいくらアルコールを飲むのをやめろ、と言っても、そのときは飲酒をやめてもまた飲み始めてしまう、なんてことが書いてあったと思うが、実際に身体に深刻な症状(痛みなど)が出ていなければ、苦しい思いをして予防のために薬を飲んだり、大好きな酒をやめたり、っていうのは難しいと思うのである。

そこには、「薬を飲まないこと」や「酒を飲むこと」が遠い将来に自分にふりかかってくる病気よりも自分にとって有益である、という信念があるのだと思う。これを心理学ではスキーマ(信念体系もしくは心的枠組み)という。そして、そのスキーマは、おそらく病気が発症して、今までの認識とは異なる身体のメッセージが出たときにようやく変わるのではないだろうか。おかしいなぁ、今までは酒を飲んだら気持ちよかったのに、今じゃ酒を飲んだら身体のあちこちが痛いし苦しいんだよね。これって、今までの自分の考え方では理解できない事態が発生しているんじゃないだろうか、今までの自分の「酒は自分にとって有益だ」という考えを改める必要があるんじゃないだろうか、ってな感じで。

このことについて、心理学者のフェスティンガーは『認知的不協和の理論―社会心理学序説』で興味深い指摘を行っている。ある人の中で認知的不協和が起きたとき、それが耐えられる程度の不協和だったときは、事実をねじまげて解釈したりしてやり過ごすのだが、不協和が最大限まで増幅されたときは、人はむしろ不協和を促すような情報源と接触しようとするというのである。

具体的に言うと、アル中の患者であれば、症状がそれほどひどくなければ、アルコールを飲むことについて、「アルコールは身体に多少は害を及ぼすかもしれないけど、心の健康を保つのに大事だ」と思ったり、酒は有益だという情報を入手することに努めたり、あるいは「アルコールは百害あって一利なし」といったニュースを見ないようにするらしい。でも、症状が重くなると、「おかしいな、今までは酒は飲んでると気持ちいいし身体にだってそんなに有害ではないはずだったのに、酒を飲むことで今自分は害を被っている。これは今までの自分の認識の枠組みでは理解できない現象だ」と思うようになり、自ら自分にとって損であるかもしれない情報-酒が自分に害を及ぼすという情報-にアクセスするようになって、自分が生命体として生きる上でよりベターな認識の枠組みを作るようになる、ということなんだそうだ。

まぁ、自分の今までの考え方では今起こっている物事に対処しきれなくなったから、生き延びるために考え方を根本的に変える、という感じであろうか。

でも、問題は、病気の場合はそうなってからでは手遅れの場合がしばしばあることである。でも、患者の認識の枠組みを変えるためには、患者自身が追い込まれる(ベイトソンでいう底つき状態と同義)必要があるみたいだし…。この矛盾はどうすればいいんだろうか?

もし医者に出来ることがあるとすれば、患者の認知の枠組み--なぜ酒を飲むことを快と感じるようになったか--を理解しようとすることが、患者の認知の枠組みを変える第一歩になるのではないだろうか。現在、患者さんがある種の自虐的な認知の枠組みを持つようになったのは、仕事が上手くいかないことや、家族との軋轢を忘れるために必要なことなのかもしれないし、酒を飲んで自分を解放することでしか他人とのコミュニケーションを円滑に出来ないという経験から生まれたものなのかもしれない。患者さんの身体症状を治すために生活習慣を変えてもらうように求めることは患者さんのスキーマを変えることなんだと思うけど、そのスキーマをいきなり変えようとする前に、まず患者さんの考えを理解することは医者にとってマイナスにはならないように思うのである。
すなわち、医者側の認知の枠組み--酒をやめることは身体と心の健康にいい--を理解してもらうためには、まず相手の認知の枠組みを理解し、それを受容することが大切だと僕は思う。そしてそこに、相手の成長を願うなら、まず最初に言うことは「今の自分を捨てて成長しろ」ではなく、「今のままでいいんだよ」という対人関係におけるパラドクスがあるように思うのである(このパラドクスについては、子育てハッピーアドバイスに詳しい)。

PS HIVはある男性がサルと獣姦したことがきっかけで人間社会に広がった、という説がある。サルと獣姦ってとんでもない、って思うかもしれないが、西欧では獣姦はそれほどめずらしいことではないということが鈴木孝夫の『日本人はなぜ日本を愛せないのか』に書かれている。なんでもアメリカの小説に、まずネコから始めて、次に犬、そして羊にうつる、なんて記載があるそうで…。まぁ、事実かどうかは分かりませんが、今度機会があったら調べてみたいと思います…(及び腰)。
  1. 2006/05/03(水) 01:25:48|
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AIDS治療と認知的不協和(前編)

先週の金曜日で「血液」についての授業が終了!いや~、密度の濃い勉強だった。どのような内容であったかはここでは深く書かないが、とりあえず、血液の授業は僕の心に深い傷を残したということは書いておこう。

さて、知らない方はおそらくいないと思うが、血液疾患の中に、AIDS(後天性免疫不全症候群)という疾患がある。このAIDSという病気は、性交渉などが原因でHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染した後、感染者の体内でHIVによりヘルパーT細胞(免疫を司るリンパ球の一種)がゆっくりと破壊されていくことによって免疫機能が低下した結果、健常人なら害を及ぼさないようなカビや細菌などによって身体に生じる様々な症状のことをいう。

繰り返すと、HIV感染はウイルスに感染した状態のことを指し、それだけでは特に表立った症状は出ない(末期の場合は免疫不全症状が出るが)。一方、AIDSは免疫不全状態のことを指し、カビ(真菌)や細菌によって皮膚、舌、肺、脳などに炎症などが合併症として生じている症状全般をいう。

このHIV感染は、一時は致死的な病気であったが、現在ではHAART(Highly Active Anti-retroviral Therapy:通称ハート)という他剤併用療法が開発されたおかげで、根治はしないものの、薬さえ飲み続けていればAIDS発症は免れるようである(ただし、薬剤長期投与のデータがないため、理論上の話のようであるが)。

ただし、問題はその費用で、1人の患者にかかる医療費は、億単位に及ぶとのことだそうだ。何十年の薬剤使用でいくらかかるという試算は授業では説明がなかった(と思います…)のだが、莫大なコストがかかるというのは確かなようである。

さらに、その副作用(吐き気など)がキツいというのも特徴である。薬を定期的に飲むわずらわしさとも相まって、(意図的に)飲み忘れる患者もいるようだ。

でも、10回に1度でも飲み忘れがあるとHIV感染治療の効果がなくなってしまうらしい。というのも、たったそれだけで、あっという間にHIVが体内で増殖し、さらに薬剤耐性まで獲得してしまうからなんだそうだ。

ということで、HIV感染治療では、AIDS発症ぎりぎりまで経過観察して、そこでようやく薬剤療法にうつるとのことである。医療費削減という面があると言ったら患者さんに申し訳ないのだが、例えば5000万円分薬を飲んでもらってから、ふと飲み忘れてそれまでの投与効果がフイになってしまう可能性があると思うと、その方策を撮るのも分からなくはない。それよりも、症状が出ていないうちから副作用の激しい薬を飲むと、患者さんがいやがって治療を拒んだり病院に来なくなってしまい、AIDSの症状が出て病院に来たときにはもう手遅れ…、ってなことになるので、それを避けるために経過観察をするというのが主な理由のようである。

(続く)


  1. 2006/05/03(水) 00:48:51|
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