続・晴耕雨読

東北在住のへっぽこ医師ばんじょーの日々思っていることをつづったブログです。週2回くらいの更新を目指しています。スパムコメント対策のため、 コメント時に画像認証をお願いしております。お手数ですがご了承ください。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

今週はテンパってます

先週から今週にかけて、かなりテンパった生活を送ってるので、ちょっとブログの更新ができそうにありません。すみません…。

それだけだと見ていただいてる方に申し訳ないので、本の紹介でも。

『最驚!ガッツ伝説』

最驚!ガッツ伝説
ガッツ石松監修 / 鈴木 佑季監修 / EXCITING編集部編
光文社 (2004.7)
通常2-3日以内に発送します。



ワタシはねー、ボクシングに出会ってから、人生観が360度、変わったんです

(鎌倉幕府が制定された年を聞かれて)「確かよいくにだろ…4192年!
(←うろ覚え。ちょっと言い方ちがったかも)

いや、まだ西暦2000年を過ぎたばっかりだから。
ってな感じで、驚きのガッツ語録が満載されている。お勧め。


『いいまつがい』

言いまつがい
言いまつがい
posted with 簡単リンクくん at 2006. 4.24
糸井 重里監修 / ほぼ日刊イトイ新聞編
新潮社 (2005.4)
通常2-3日以内に発送します。


○正直申告
「私の友人の話です。チャイナドレスを着る中華料理店でのアルバイトでした。A定食を運ぶ途中、スープをこぼしてしまい、「お取替えします」と言うつもりが
こちらスープのこぼれたA定食でございます
と言ってしまい、「そんなもの頼んでいない!」と客につっこまれたそうです」

こりゃ相当いいまつがえてるね。

○どうしてもっていうなら
「ファーストフード店でバイトをしてたころ、アイスティーの注文が立て続けにはいり、ずーっと「ミルクとレモンはどちらになさいますか?」と尋ねつづけていたところ、次のお客様が「ポテト一つ」と注文されたのに、「はい、ミルクとレモンはどちらになさいますか?」と聞いてしまいました。お客様が戸惑ったように「どうしてもっていうならレモン…」とお答えになったのを今でも覚えています」

まぁ、フライドチキンにはレモンの絞り汁をかけることもあるからねぇ。



ってなことで、両方とも読んでると気持つが晴れ晴れとする本です。特に『いいまつがい』は文庫本が出ているので、お買い得ですよ。疲れたときにどうでしょう。
スポンサーサイト
  1. 2006/04/23(日) 23:37:47|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

ふと思ったこと~好き嫌いという有機体の知恵~

僕の友人は、好き嫌いが多い。フルーツが全般的にダメで、漬物もダメだ。確か他にも嫌いな食べ物があった気がしたが、それでも普段の彼を見ている限りはそんなことが想像できないくらい偉丈夫だ。身長は180センチ近くあるし、昔ケンカでならしただけあって、がっしりした体格をしている。好き嫌いがあっても、人間丈夫に育つという好例だろう。

そう考えると、好き嫌いって、別に無理に矯正する必要はないんじゃないか、って思う。小学校で嫌いな食べ物を無理やり食べさせる先生がいるという話をたまに聞く(今もそういう先生はいるのかなぁ)が、あれって本当に子供のためになってるのだろうか?僕は、おそらくこのような矯正は、子供が自分を理解する機会を減じているのではないかと思うのである。

幼児が自分が生存するための本能的な欲求に正直である、と書いたのはカール・ロジャーズであった。『ロジャーズ選集(上)』には、幼児の前に200種類くらいの未加工の食品を並べて、その幼児がどのようにそれらの食品を摂取するか、という実験について書かれている。その幼児はタンパク質を採った後で足りない炭水化物を採ったり、ビタミンの足りない食事をした後でビタミンを食べたりするなど、偏った食事をした後はそれを補正するような組み合わせの食料を口にしたそうである。

この実験が、幼児が生存する上で、本当に必要な食事を摂取していたことを示すのかは分からない(1年くらい続けたら、幼児は実は栄養不良になっちゃった、ってことがあるかも知れないからね)。けど、僕はこの実験が示していること、つまり、自分の好き嫌いといった嗜好に対して正直に行動するのが生存上ベターである、という考えが荒唐無稽であるとは思わない。

むしろ、感情とか直感的な嗜好性といったものは、生きていく上で大切なものなんじゃないか、と思う。このような自身の感情や直感を、ロジャーズは「有機体の知恵」と呼んだ。そして、そのような有機体の知恵
と、社会で生活する上での価値判断が矛盾するとき、人はある種の心的不安定状態に陥るのではないか、ということをロジャーズは述べている。

それってどういうこと?

例えば、家族や周囲の知人が、結婚相手を勧めてきたとき。いい人なんだけど、なんとなく自分とは合わないんじゃないかな~、でも、先のことは分からないし、今のまま家にパラサイトしてるのも親に悪いし…、なんて場合とか。それで、そのまま結婚してしまった時に、相手をやっぱり好きになれないけど、「夫には尽くさなければならない」という社会規範に従わなきゃいけない、と感じてしまうような立場に置かれてしまった場合とか。

別の例を出そう。

自分も経験があるのが、嫌いな知人と四六時中一緒にいなければならなくなったときである。正確には、一緒に仕事をするようになって嫌いになったのだが、あのときは辛かった。だって、仕事は進行中だから、離れるに離れられない。でも、その人と同じ空間を共有したくない、みたいな。

そういうとき、僕はいつしか「あの人がこっちへ近づいてくる、だから、きっと彼は僕に対して敵対心は持っていないんだろう。じゃあ、僕のこの不快感は持つ必要のないものなんだ」と自分を誤魔化すようになっていた気がする。目の前に嫌いな人がいると、必ず不快なメッセージを受け取ってしまうから、それによって不快な気持ちを味わわないようにするには、その不快なメッセージを歪めて受信する必要があったのではないだろうか。

ロジャーズは、人間はある種の状況においては、自分が直感的に感じる不快なメッセージを、不快と感じることを避けるために歪めて受信する傾向があると喝破した。そして、そのような歪みが続いて、自殺にいたったケースについて『ロジャーズ選集』で取り上げている。それだけ、自身の感情や直感といった「有機体の知恵」を無視したりないがしろにすることは、人間にとって苦痛なことなんだろうと思う。

まぁ、確かに、快/不快のメッセージを歪めて受信するってことは、生物として生きていく上で、かなり不利益を被ることにつながるんじゃないか、と思う。シマウマが隣にいるライオンから発せられるメッセージを「このライオンは、自分のことを愛しているんだ」と誤読したら、数時間後にはライオンの胃の中にいるだろう。人間だって動物だから、本能的に自分にとって危険な状況かどうかを感じ取ることがあるんじゃなかろうか。

ウチダ先生は2005年1月7日の日記で、嫌いな人や物事に対して、恐怖とか嫌悪とかいった感覚をオフにすることは、生物として非常にリスキーな選択である、というようなことを述べられているが、その通りだと思うのである。

でも、社会で生きていく上で、仕事が嫌いだからといって放り出してばかりいたらクビになるだろうし、相手を選り好みしてたら結婚だって遠ざかるかもしれない。どうすりゃいいんだ、という話なのだが、それについて、ロジャーズはこう答えている。

有機体の知恵を否定しなければいいんだ、と。

ん?感情をそのまま表にだせということ?そうではない。自分が好きとか嫌いとかいった感情を持っているということを、認めればいいんだ、ということである。それを表出するかしないかはまた別の話である。あと、自分がそういう感情を持っていることを遠慮なく話せる相手がいるといいんじゃないか、と思う。


最後にちょっとだけ専門的な話を。

この、有機体の知恵を認めるということは、自分自身を受容するということであり、TA(交流分析)的には自分にOKを出す、ということなんだと思う。でも自分を受容するっていうのは、自分がどのような状況におかれており、どのような心的枠組み(スキーマ)を持っていて、それが自分の感情にブレーキをかけている、というところまで把握出来ないと、難しいのかもしれない。この、自身の心的枠組みを理解するというのは、自分をメタレベルで理解するということなんだと思うけど、このことは奇しくも、ベイトソンが言っている、ダブルバインド状態を抜け出すには、自分がダブルバインド状態にいることに言及することである、ということに非常に近いものがあるように思うのである。


あぁ、これから英書を読んでレジメを書かないと…。今晩は寝られないかも知れません(涙)。

  1. 2006/04/17(月) 01:54:21|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

新人勧誘のスキーム(完成)

ブログ、手直し終了しました。完成版です。良かったら見てやってください。



新学期が始まって、朝9時から夕方5時まで授業の生活が再び始まった。

図書館が夜の9時まで開くようになったから、昨日今日と図書館閉館まで粘って本を読んだりしてたけど、遅くまで図書館が開いててくれるっていいなぁ、としみじみ思ったりする。

ところで、僕は現在大学で心理学サークルを運営しているんだけど、今年は新1年生に2人入ってもらうのが目標である。うちのサークルは「2年に1人新人が入る部」という伝統があるんだけど、今年は上を狙ってみようかな、と野心を燃やしているわけです。

ちなみに秋田大学は運動部が隆盛を誇る学校なので、文系のサークルはちょいと押され気味なのである。そういう背景があるので、当事者的には本当は新人1人でも結構大変なんだけど、ここで「どうせ新人なんて入らないよ、って思ってた方が、実際に入ってくれたときラッキーだと思えるし、最初からあきらめてた方が精神的にダメージが少なくてすむ」って思っちゃうと本当に0人になりそうだからね、本当に2人来てくれると思うようにしている。

こうやって書くと、客観的に見てバカみたいに見えるかもしれないけど、こういう前向きの気持ちが案外現実をいい方向に変えたりするもんなんじゃないかと思うんですよ。

そして、「誰もうちの部活に入ってこないよ」って考えると、いつの間にか誰も入ってこないように行動しちゃったりすると思うのである。

いやね、これは精神論だけの話ではなくて。

G・ベイトソンが『精神の生態学』で、危険物質に近づいて、痛い目に合っても別の危険物質に近づいてしまうネズミの話を書いている。ベイトソン曰く、このネズミは危険物質を理解しない愚かなネズミだということではなく、ネズミは好奇心に満ち溢れており、たとえ痛みを伴っても「新しいことを発見する」ことに快を見出すことを学習しているらしい。

「新発見をする」という観点から物事に接すると、不快な出来事も快に感じることがあるということなのだろう。

このような「観点」を、心理学用語ではスキーマ(=心的枠組)と呼ぶ(と思う)。

そして、ある種のスキーマは、上のネズミの例のように、不快な情報ですらも、自分にとって快に変えてしまう可能性がある。
例えば、謙遜かどうか分からないけどテスト前から「今回は悪い点しか取れないよ」と言ってる生徒が、本当に悪い点を取ってしまった場合。もちろん、悪い点を取って悔しい思いをしていると思うが、反面こういう気持ちがあるかもしれない。
「ほらみろ、オレの予想は当たったろ」

そんなバカな、自分で自分がダメになる予想を立てて、その予想を当てるために行動する人間がいるのか、って?

これは僕の考えなんだけど、人間って、未来を予測したいという欲求があるんじゃないんだろうか。何分後に物体がどこに移動するかを求める物理学の法則も、未来を予測してるってことなんだよね。株だって他の投資家に先んじて値動きを予測することが重要視されてるみたいだし。ウチダ先生はブログで護身と未来予測について書かれているが、未来を予知することが自分の身を守ることや利益につながるのであれば、未来を予測し、予測どおりの未来を迎えることに快を感じるのは自然なことなのかもしれない。逆に、自分にとって好ましくない未来を迎えるとしても、その予測が当たるという快が得られるからこそ、好ましくない未来でも甘んじて受け容れられるのかもな、と思ったりする。

さてさて、恐らく「自分でダメになる予想を立ててそれを実現することに自分は快楽を感じてるんだ」と自覚している人はいないだろう。しかし、無意識にそう思っていて、ちょっとずつちょっとずつ自分がダメになるプログラムを実行している人は、僕はいると思う。というか今まで何人も見てきている。

例えば、医学部を最初は志望していたんだけど、「オレ、どうせ志望校に受からないよ」って言って、勉強しなくなっていった浪人生。彼は「どうせ受からないと思うけど、一応受けてみるよ」と言って大学受験したけど、やはり不合格だった。

こう書くと申し訳ないけど、もしかしたら、どれだけ頑張っても、彼には合格するだけの学力はつかなかったのかもしれない。でも、もし「自分は必ず合格する」というスキーマを持って受験勉強に接してたら、もっと学力がついたのではないだろうか、と思うのである。

上の浪人生の話とは逆に、「自分は必ず○○を成し遂げる」というスキーマを持って物事に接している人を何人か見ているが、実際に成功するためにあらゆる手を尽くして、そして目標を達成している。

で、このスキーマの獲得(おそらくベイトソンが学習Ⅱと呼んでいるもの)は、大部分が生まれ育ちによるのかも知れない。『遊びと発達の心理学』でピーター・ウォルフは、悲惨な境遇で幼少期を過ごし、そのため人生をあきらめかけている子供たちの学習意欲を上げるためには、どのように子供たちのスキーマを変えたらよいか、というようなことを書いている。すなわち、学習すれば自分の境遇を変えることが出来るというスキーマを得れば彼らにとってプラスになるんじゃないの、ってことなんだろうけど、逆に言えば、それだけ人間は自分が獲得したスキーマに縛られて物事を解釈してしまい、また自分のスキーマから抜け出すことが難しい、ということなのだと思う。

恐らく、このスキーマを変えるという作業は、自分ひとりでは難しいのではないかと思う。尊敬する他者と出会い、自分のスキーマに拘泥することをやめ、その思考や行動を模倣し、その視線で物事をとらえなおすことが、スキーマを変え、自分を成長させるきっかけになるのではないかと思うのだ。このことは、ウチダ先生が『他者と死者』の中で、「師としての他者」の項目でおっしゃっていることと同じなのではないかと思う。

ちなみに、アメリカの精神科医のミルトン・エリクソンは、あるテクニックを用いて、スキーマを変えるということをよく行っていたようだ。ミルトンとベイトソンは実は知り合いで、共著も出している。さらに、この2人の理論が元になって現在NLP(神経言語プログラミング)というブリーフセラピーの技法も生まれている。機会があれば、それらについてブログで書く…かもしれない。


ということで、僕も成功した先人に習って、今年はサークルの勧誘に情熱を燃やそうと思っているわけなんです、はい。頑張るぞ~!



PS 目標達成に向けてスキーマを変えるという話は、先日コウイチさんからいただいた(お借りした?)本を参考にさせていただきました。ありがとうございます。
スパゲッティさん、ちょっとこのブログから検索かけるのは難しいかもしれないですね。すみません。
  1. 2006/04/12(水) 01:06:33|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

しゃっくりの止め方とクマムシについて(この2つは全然関係ありません)

先日、スズケンさんにしゃっくりの止め方を聞かれたので、このブログにて返答させていただこうと思う。

まずはしゃっくりの定義から。読むのが面倒くさい方はとばしてください。

しゃっくりは医学用語では「吃逆(きつぎゃく)」といい、声門が閉じた状態での横隔膜の不随意な収縮による吸気運動である(朝倉内科学第8版、P141)。

要は、横隔膜の痙攣、ってことのようです。

横隔膜が刺激されると生じるんだけど、深いボディブローでも食らわない限り横隔膜が直接刺激されることはないだろうから、たいていは横隔膜を支配する神経に刺激が与えられることでしゃっくりが生じるものと思われる。

ちなみに、横隔膜を支配する神経は横隔神経で、頚髄から出る。さらに、延髄の呼吸中枢の支配を受けるので、頚髄→横隔神経→横隔膜のルート、もしくは延髄→脊髄→運動ニューロン→横隔膜のルートのどの部分が刺激を受けても、しゃっくりが生じる可能性がある。

ということで、炭酸飲料を飲んで食道を介して横隔神経が刺激された時や、おしゃべりしてて声帯の刺激が神経に伝わった時などにしゃっくりが起こるらしいんだけど、そのような場合は一般的に短時間(数回とか数分)で止まるようだ。

ただ、長時間止まらないしゃっくり(持続性吃逆)の場合もあり、そのときは以下のような疾患が原因となるようだ。

先ほど、横隔膜の神経のルートは2種類あると書いたが、それらのどの部分が刺激を受けるかによって、中枢性吃逆(脳と脊髄に刺激がいく場合)と末梢性吃逆(それ以外の部分に刺激がいく場合)に分けられ、中枢性だと脳腫瘍、脳出血、糖尿病、アルコール中毒などが原因に、末梢性だと、食道や胃などの炎症・腫瘍などや、心筋梗塞なども原因となりうるそうである。

こう考えると、しゃっくりといえども決して馬鹿には出来ないですね。



さて、ここからが本題。

短時間で止まるようなしゃっくりが、たまたま止まらなかった場合の止め方についてであるが、朝倉内科学には「一般に冷水や食塊の嚥下、息を止める、…舌根部の刺激やくしゃみの誘発など」が治療法として挙げられている。横隔神経をもう一度刺激しなおして、ショック療法で横隔膜の痙攣を止めろ、ということのようだ。それで止まらなければ、抗痙攣薬のバクロフェンを投与したり、シサブリド・オメブラゾール・バクロフェンの三者併用のCOB療法というものを行え、と書いてある。

ちなみに、医学都市伝説さまには、以下の治療法が臨床の現場で用いられているしゃっくり治療法として掲載されている。

①プリンペラン(吐き気止め)の静注。それでダメなら②コントミン(抗精神病薬のクロールプロマジン)を少量の生理食塩水にといて点滴。それでもダメなら③キシロカインを1mg/kgで点滴。

なんだ、朝倉内科に書いてある方法と違うじゃないか。辞典の内容をそのまま臨床で使えるわけではないということなのか…。

でも、しゃっくりでわざわざ医者に行くのもなんだよなぁ…、って思う方も多いのではないかと思う(僕もしゃっくりで医者には行きたくない)ので、一人で治せる方法はないかと探してみたら、下のような治療法が見つかった。

(1)お酢を飲む(by医学都市伝説さま)
これは結構効くらしい。僕もしゃっくりになったときは試してみようと思う。

(2)舌を30秒ほど引っ張ってもらう(byあなたの健康百科さま
乾いたガーゼなどで引っ張ると迷走神経が刺激されていいそうだ。

(3)眼をこする(byメルクマニュアルさま)
迷走神経刺激になっていいらしい。おそらくAshner法と同じだと思われる。迷走神経刺激がなぜ横隔膜の痙攣を止めるかについて、色々な資料を見てみたけど、載ってないんですよね~。多分、迷走神経刺激→吸息抑制(ヘーリング・ブロイエル反射)→横隔膜が比較的伸びたままになるから、なのかなと思うのですが…。どなたかご存知の方、教えてください。

(4)びっくりさせる
これはよく聞くけど、まぁ相手がいないといけないから、難しいかも。

(5)柿のへたの煎じ薬を飲む(by生活知恵袋さま)
効くらしいけど、どこに売ってるんだろう…。

(6)ロシアのバレリーナがやってるポーズをする!(byRuputerFunさま)
手を後ろに組んで、後方に反らしながら、上体を前方に90度傾け、その姿勢のまま水を飲ませてもらうといいそうだが、う~ん、すごい治し方だ。
おそらく直接横隔膜を伸ばすのではなく、息を吸いにくくして血中二酸化炭素濃度を上げるのが目的と思われる。
 
試してみた方、報告などいただけると嬉しいです。


それと、SENZAさんから、クマムシってどんな生き物だ、と聞かれたので、詳細が掲載されているHPを紹介します。

俺様イズムさま
以前は動画が見れたんだけど、リンク切れになってしまったようで…残念。

と、思ったら別のHPで動画を発見したのでリンクを貼らせてもらいます。
高知大学キャンパス内のMovieさま

ということで?、クマムシは最強の生物です。以上。

  1. 2006/04/06(木) 02:53:04|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

一期一会と連続する自己

先日FTEXT
http://www.ftext.org/
の会議に参加、その後中華料理屋で刺激的な?夕食→カラオケに連れて行ってもらいました。コウイチさん、FTEXTのみなさん、遊んでくださってありがとうございました。次までにカラオケの腕(喉?)を上げてきます。

さてさて、会議の合間に、スズケンさんから「大岡越前、株式、仏教、禅、生命の連続性は面白かったよ。けど、最後の方がグダグダだったね~」という感想をいただいた。

面白かったってコメントをいただけて、感動っす。ありがとうございます。

ただ、そのコメントに、つい「いや~、そのとき眠かったからグダグダになっちゃったんですよ~」って答えてしまったのが良くなかった。いや、確かに眠くて後半書き流してはいたけど、どのへんがどうグダグダだったか聞いておけば、自分のブログ力?の向上につながったと思うんだよね。

一期一会を大事にしようと思ってるんだけど、その教訓を生かせなかったあの時の自分を反省。

「一期一会なんて大げさな、今度スズケンさんに会ったときにあらためて聞けばいいじゃない」って思われる方もいると思う。いやいや、そりゃあね、僕が饅頭食いすぎて突然死したり、FTEXTから放逐されたりしなければ(その可能性が一番大…汗)またお会いできると思うんだけど、だとしても次に会ったときのスズケンさんと前回のスズケンさんとは決して同じ人ではないと思うんですよ。

別に異性人とか多重人格の話ではなくて、人間の身体は常に代謝を繰り返していて、連続はしているんだろうけど、決して同一な存在のままではない。皮膚は垢になって剥がれ落ちて新しい皮膚が出来るし、身体に贅肉がついたり、成人以降は脳細胞は1日ごとに老化して減っていったりする。もちろんシナプスのネットワークが増えたりもするんだけど、そうすると思考パターンもちょっとずつ変わってくるだろう。記憶だって新しいのが入ってきたり、忘れたりするし。ほら、同じじゃないでしょ。

でも、同じ遺伝子を持ってる細胞から身体は作られてるから、遺伝子レベルでは同一性を保ってるはず、と思われるかもしれないが、さにあらず。人体にはリンパ球B細胞という異物を身体から除去するために働く細胞があるんだけど、この細胞は常に自ら遺伝子を組み替えて突然変異を起こしているらしいのである。正確には、B細胞の異物受容体である免疫グロブリンのタンパクを生成する遺伝子座VDJが相互組み替えを起こす、ということが起こってるんだけど、難しいですよね、すみません。ちなみにこれは利根川博士がノーベル賞を取った発見です。

この突然変異は異物を効率的に排除するための免疫機構の1つらしいんだけど、こうして突然変異が起こったB細胞に、免疫機構は働かない。そう、遺伝子が変化しても自己として認識されているのだ。

じゃあ、自己ってなんだろう?1年前に取った自分の写真を見せたとき、自信を持ってこれが自分だって言えないのか?ってことになると思うんだけど、かなり難しい問題だよね。

ん?思わないって。まぁ、そりゃバイトの面接で履歴書見せて、この写真撮ったときのあなたと今のあなたは違う人間だから詐称で採用できない、なんてこたぁないだろうから、考えなくてもいいっちゃいいのかもしれないけどね。

でも、一応自分なりに決着をつけてみたい。免疫学者である多田富雄は『免疫の意味論』の中で「免疫学的に見た自己は、自己の行為そのものである」と述べている。どういうことかっていうと、形とか、成分とかではなくて、その行動の一貫性が自己を決めるんじゃないの、ってことのようだ。

例えば、30年来会ってなかった友人に会ったとき、頭に白いものもできて、腰も曲がって、顔もしわだらけになってるんだけど、30年前と似たような冗談を言ったときに笑った顔をみたら、「ああ、やっぱり変わってないなぁ」って思った、っていうような状況を考えてみれば、理解しやすいのではないかと思う。

「自分らしさ」にこだわったり、ある種の生活スタイルを頑なに守る、っていう部分は誰しも持ってるんじゃないかと思うけど、それは単なるこだわりではなくて、自分のアイデンティティを維持する上で必要なことなのかな、と思ったりもする。

余談であるが、この「行為によって自己が定義される」という免疫の考え方を多田富雄は「超(スーパー)システム」と同書の中で命名している。これって、『オートポイエーシス(河本英夫著)』にある行為存在論に近いものがあると思う。ってことを精神科医の斎藤環が『文脈病』で指摘してるんだけど、こうやって話を広げまくるとまたグダグダになってしまうので余談はここまで。


話を戻して、少し間をおいただけでも、人間って気持ちが変わったりすると思う。朝起きたら「昨日悩んでたけど、一晩寝たらどうでも良くなっちゃった」ってなことがあるように。気分だけでなく考えだって変わる可能性はあるわけで、それが今まで書いてきたような「連続しているけど同一でない自己」だと思うのである。だからこそ、後で聞いても相手は同じことを言ってくれると期待せず、聞くべきことはその場で聞くことは大切だと思うのである。一期一会ですね。もちろん、時間をおいたほうが熟成される思考ってのもあるだろうから、全部が全部その場で聞くべきだ、とは限らないと思うけど。

聞きそびれたのは仕方ないから、スズケンさんに今度会ったときに、どこがグダグダだったのかあらためて聞いてみよ~っと。でも、下手したら次に会うのが数ヵ月後の可能性があるから、同一性とかそういう問題ではなく「何がグダグダだったか忘れた」って可能性もあるけどね。あらら。


ちなみに、「大岡越前、株式、仏教、禅、生命の連続性 ~その1~」を大幅に手直ししましたので、どう変えたか興味ある方、よかったら見てやってください。

  1. 2006/04/04(火) 02:56:50|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

大岡越前、株式、仏教、禅、生命の連続性 ~その3~

(前回のつづき)

坂口安吾の『堕落論』にこういう話がある

昔、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教の布教に来たとき、フカダジという僧が、ザビエルに禅問答を仕掛けた。ザビエルがフカダジに、あなたに会うのは初めてだ、と言ったのに対して、
「あなたは、…今からちょうど1500年前に比叡山で、私のために金を500貫見つけてくれた商人というのが、あなたじゃありませんか。…それともあなたは、ほんとに忘れたのですか?」
と問いかけたのだ。

ザビエルはそれに対して、フカダジに年齢を聞いた後、
「52歳という人間が、1500年前に、比叡山で金を貸すことが出来るということは、おかしいではありませんか。…あなたはどうしてそんなことを云うのですか」と切りかえしたとのことである。

坂口安吾はこのやり取りについて、禅には禅の世界だけの約束というものがあり、禅問答というのはそういった約束の上にたって論理を弄しているものだ、と言っている。そして、まっとうな論理には禅問答はかなわない、と述べている。

僕は、あえて安吾とは異なる解釈をしてみたい。禅問答とは、むしろ論理の前提を疑うものなのではないか、と。この場合の前提っていうのは、ザビエルの場合は「人間は100年くらいしか生きられないし、生まれ変わりなどもしない」って感じだろう。前回から書いてきたのだが、論理の前提となる客観的な情報というのを、人間同士は共有し得ないと思う。そうである以上、論理的に話を進めていっても、土台である前提が覆って話自体が無意味になる可能性はあるわけで。禅というのは、論理を組み立てた後に土台を覆されてあたふたする前に、前提自体を多方向から見直して、あらためて物事の成り立ちを多面的にとらえましょうっていうような思考ツールなのかも知れない。

上にザビエルとフカダジのやり取りを書いたが、フカダジは別にザビエルにただ面白がって禅問答を仕掛けたわけではないと思う。仏教観に前提としてある、輪廻転生についてどう捉えるかを禅問答という形式で聞きたかったのではないかと思うのだ。

『日本人はなぜ日本を愛せないのか(鈴木孝夫著)』に、仏教の輪廻転生思想について書かれている。著者は輪廻転生観に日本人の感じる生命の連続性が反映されており、それゆえ自分とつながっている外界の生命や自然を尊ぶ心を持っているのだろう、と論を進めている。対照的なのがキリスト教で、理性を持った人間は生き物の中で別格の存在であり、それ以外の存在は人間に使役される存在である、という考えらしい。まぁ、その地域で人間が生き残るために生まれた合理的規範が宗教であるという考えに立てば、別にどっちの思想が上とか下とか比べるつもりはないが。

で、掲本に『死の壁(養老孟司著)』の引用があった(ややこしくてごめん)。どんな話かというと、ある仏教国で養老氏があるお爺さんとお酒を飲んでいたときに、養老氏のビールのコップに入った溺れているハエをお爺さんがハシでつまんで救い出したらしいのだが、そのときのお爺さんのセリフが
「(このハエは)おまえさんの爺さんだったかもしれないからな」
というものであったそうだ。

生き物が死んだら別の生き物に生まれ変わるっていうのが輪廻転生の考えなんだろうけど、これを否定するに足る完璧な論理と科学的な前提は、おそらく西洋の学問にはないだろう。神の存在を証明できないのと同じだよね、多分。

でね、ここまで「論理の前提は万能ではない」という線で話を進めてきたんだけど、万能ではないにしても前提がなければ話をする上で不自由なわけで、人間同士がお互いに理解しようと思ったら、前提を完全に擦り合わせることが出来なくても、ある程度同じ前提で擦りあったらいいや、ってな感じで妥協しないとそもそも話自体が出来ないんじゃないか、と思う。なので、自分の前提はそもそもあやふやなので、固執しないで相手に合わせてもいいんじゃない、っていうのが「論理の前提は万能でない」という考えの有益な使い方なんじゃないかなぁ。自分の理論に固執しないほうが、話がはずんでいい方向にいくよ、多分。

ちなみに、相手の話を聞きたくないときに、そもそもの前提を非難する場合があると思う。「私の前提は正しい、あなたの前提は正しくない」って言ってくる人って周囲にいないだろうか。例えば、「君の村上春樹論は、そもそもあの作品を読んでない時点で問題があるよ。それに、君は自分の経験からワタナベ君の気持ちを考えてるけど、君が浮気をしない限り彼の気持ちは分からないよ」なんていうようなことを言う知り合いがいるんだけど、これも僕の前提が間違ってることを主張することで、あなたの説はだから全部間違いだ、って言いたいんだと思う。

う~ん、こういうコメントが続くと会話する意欲がなくなるんだよね~。まぁ、その知り合いは、ここまで否定する以上僕とは違う前提(村上春樹についてはすべての作品を読み、主人公と同じ行動をとらないと主人公の気持ちが理解できない)を持っているんだろう。

それに対して、こっちのコメントを否定された腹いせに、相手の前提を否定するのは簡単なんだけど、その前に自分の前提が本当に正しいのかを疑ってみて、相手の前提を多角的に分析すると、このコミュニケーションから学ぶものが出てくるのかも知れないね、と思う。

でも、人とコミュニケーションするたびにこんなあれこれ考えて、そこまでして深いコミュニケーションをする必要があるのか、ということをたまに考えたりするんだけど、僕はただ言葉の交換だけでなく、相手の話の前提まで掘り下げることが、自分の限界を教えてくれる、すなわち自分が成長する機会を与えてくれることにつながると思うのである。成長への欲求が深いコミュニケーションを喚起する、って言うんでしょうかね。


最後にややこしくなってしまって申し訳ない。それに、「前提」という言葉を抽象的に使ってしまったので、分かりにくい部分が多々あったと思うが、どうかご海容のほどを。

(了)




  1. 2006/04/02(日) 03:42:48|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

大岡越前、株式、仏教、禅、生命の連続性 ~その2~

(前回の続き)

『信用取引 実践バイブル(新井邦宏著)』に株の信用取引(という株の売買の仕方があります)で損した人の話が出ている。

株を安値で買って高値でさっさと売ればいいのに、もっと値段が上がるんじゃないかと欲張って売らないうちにあっという間に値崩れして、株の値段が買値を下回って大損した人の話らしいのだが、株価が5000円を超え、十分利益が出たときにその人が言った言葉がこれ。

「何言ってんのよ。これは1万円まで行くわよ」
「本尊のA先生の奥様に聞いたら、『まだ買い』って言ってるわよ」
「A先生は、ものすごくプライドが高いから、こんなもので相場を終わらすはずはないわよ」

ここでいう本尊とは、仕手株の仕掛人のことである。株の値段を上げたり下げたりという操作がある程度できる人(グループ)だが、もちろん完全に市場をコントロールできるわけではない。市場をコントロールしたつもりが、逆に飲み込まれて破産することもあるらしい。

ここでの話は、株に当てられて上気してしまった人がたまたま陥った例だろう、って思われるかもしれないが、株式の本を3冊ばかり読んでみただけでも、似たような話がたくさん出てくるのだ。

で、上の例で、もし1万円まで上がって売り抜けられたとしたら、こういうセリフが出てくるのではないだろうか。
「ほらね、私の計画通りだわ、確実なニュースソースを持っていれば株式相場だって予測できるのよ」
そして、それを聞いた人が、もしかしたら「やはり確実なニュースソースを持っていれば確実に儲けられるんだ」なんて思うかもしれない。そこで舞い込んできた「あなただけにこっそり株の美味しい話を教えちゃいます」なんてメールに飛びついちゃったりして。

ここで言いたいことは、株で儲けた人の「自分はこういう計画や理論で成功した」という話は、結果的に儲かったからいえることであって、普遍的なものではないのではないか、と疑う姿勢は持っておいていいんじゃない、ということである。

では株は完全に運の世界かというとそうでもないらしい。例えば、ボリンジャーバンド(正規分布を用いる)や、エリオットの波動理論(フィボナッチ数を用いる)など、数学を応用した理論がある。でもどれも完全に将来を予測できるというものではないそうで(そりゃそうだよね)、僕が読んだ本の著者は、一様に「いろいろな理論を組み合わせて総合的に判断する」と言っていた。

そう、自分が完全な努力をしてきたと思っても、結果が出たら水の泡ってこともあるだろうし、逆に特に明確な目的があったわけではないけど自分が好きだからやってきたことが、あとで意外な形で実を結ぶこともあると思う。

僕の知っている女性で、クラブ遊びの好きな人がいる。4年くらい、ずっと金土の夜は徹夜でクラブで遊んで、朝に帰ってくる。社会人でちゃんと仕事をこなしてはいるが、まぁよくそんなに遊ぶもんだと半ばあきれつつ話を聞いていたのだが、最近になってビッグプロジェクトの話が舞い込んできたらしい。どうも、クラブで作った人脈を買われたらしいのだ。

クラブって言っても、ただ踊るだけじゃなく、そこでいろいろな人と話をする機会があるそうで、特に東京のクラブっていうと、ベンチャーの社長とか若くてやり手のビジネスマンとか、マスコミ、テレビ関係の人とかが来てたりするらいいから、OLをやってるだけでは知り合えないような人脈が出来るらしい。

彼女も驚いていて、「こうやって土日に遊んでいた積み重ねが、まさかこんなところで生きてくるとは思わなかった」だって。

おそらくその女性は成功すると思う。その女性が仕事が出来る人だっていうのもある(雰囲気からだから、実際の仕事振りは分からないので確実に言い切れることではないが)が、何より「自分はこの日のために遊んできたんだ」って言わない慎み深さ、ある種のためらいが感じられるからだ。自分の判断に盲信的にならないところに、成功の可能性を感じるのである。

(つづく)


  1. 2006/04/02(日) 02:29:24|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

大岡越前、株式、仏教、禅、生命の連続性 ~その1~

今日のブログはものすっごく強引な論理展開をしています。面白い本を読んでちょっとハイになってるものでして。読んでてムカつかれたときはご容赦を。



さて、2~3日前の話。父親がテレビドラマの大岡越前を見てたので、僕もついなんとなく見てしまった。

そのときのお話は、2人の母が子供の親権を争って越前の元にやってきたとき、越前が2人に子供を引っ張らせて、子供の身を案じて先に手を放した方に親権を与えるという、例の有名なやつであった。2人の親は育ての親と生みの親という設定で、最終的に育ての母に軍配があがるのだが、裁きが下るまでの過程が面白かった。

というのも、実の母は、最初から生みの親である自分に親権が与えられると思い込んでるようなそぶりを見せているのだ。だから自信満々だし、育ての親をちょっと見下した感じも見せていた。一方で、育ての母は控え目で、子供の幸せを考えると生みの親のもとに戻した方がいいのかな、と思いつつ子供への愛情を捨てられないみたいな、思いやりのある感じを見せていた。で、越前が「子供の手を引っ張り合え」って言った時なんて、育ての親が「そんな子供を痛めつけるような残酷なことは出来ません」的な仕草を見せたのに対し、生みの親は「よっしゃぁ、育ての親をこっちにひきずりこむくらいに子供の手を引っ張ってやるぜ」的な仕草を見せていた。僕なんて、生みの親に「おいおい、そんな満面の笑み浮かべるなよ」って思わずつっこんじゃったくらいだ(テレビに突っ込むな、って言わないで)。

僕はこの演出に驚いてしまった。というのも、今回の話は以前から知っていたが、両方の親がどんな人物で、裁きの最中にどのような言動をとったり振る舞いをしていたかなんて考えたことがなかったからだ。

まぁ、その後で越前が両親に子供を引張りっこさせて、先に痛がる子供を案じて手をはなした育ての親に親権があるという大岡裁きを下すんだけど、経緯を見てると、視聴者が「ああ、これなら育ての親に親権が行ってもしょうがないな」と思えるような文脈がすでに出来上がっているように見えるんだよね。

演出家も、「生みの親と育ての親の対決で、育ての親を勝たせた時に視聴者が納得する展開にするには、ただ子供の手を先にはなさせるだけではなく、生みの親をむかつく感じに、育ての親を好感が持てる感じで演出したほうがいいよね」と思ったのであろう。でも、これって裏を返せば、「すっごく感じの悪い育ての親がたまたま先に手を放した」という演出にしてしまっては、視聴者が「なんだよ、こんなやつに親権を渡す大岡裁きには納得できない」って思う可能性があるってことだと思うのである。

これって、大岡裁きはどんな状況でも適用できる裁きではない、言い換えれば背後に流れる文脈(この場合は育ての親の方が子供の幸せを考えていて、生みの親は自分の幸せの方にだけ目がいっているという文脈)に従って判決は変わるということを示唆しているんじゃないだろうか。

だから、育ての親がロボットみたいに無表情で、子供はあまり好きじゃないけど世間体を考えると手放したくないのよね的な感じで、「引っ張るのに疲れたから先に手を放した」風の振る舞いだったら、大岡越前の裁きは「自分の子供に対して強い想いを抱いていた生みの親に親権を渡す」ってな感じになっていたかもしれない。

ここから少々難しくなるが許して欲しい。

これまで、文脈という言葉を、全体の状況、その場にいる参加者の立ち居振る舞いという意味で書いてきた。例えば生みの親の「子供を引っ張るぜ」っていう自信満々の笑みも文脈を作る一つの要素だし、場所がお白洲だってことも要素の一つだし、2人が越前の前で裁かれようとしてるってのも一つの要素だし。

さて、その文脈次第で判決が変わりうるという話をしたんだけど、でもね、この文脈っていうのは全員が共通に認識しているわけではないと思うのである。権力者である大岡越前の目に映る文脈と、2人の親が把握する文脈はおそらく違うはずだ。そもそも、自分が感じる自分の振る舞いと、他人が観察する自分の振る舞いは同じではありえないだろうからね。

それに、同じ映像を見ても、その解釈は人によって異なると思う。ある人にとっては最高の笑顔でも、笑顔慣れした人(そんな人がいるかどうかは知らないが)がそれを見たときに「んん?なんだ、あいまいな笑みを浮かべやがって」なんて思う場合もあるだろう。あばたもえくぼって言うけど、人間同士で解釈がずいぶん違うってことを示していると思う。

ということで、大岡越前と生みの親・育ての親の文脈の捉え方は異なるだろう。生みの親が自信満々の笑みを浮かべたとき、本人は「自分は最高の笑顔を見せられた」と思い、この状況での笑顔は「他人からみても子育てへの自信と受け取られる」と自己解釈をしたとしても、越前には生みの親の笑顔が「いやらしい笑み」に見え、その笑みを「自分が勝って当然と思っている傲慢な笑み」だと解釈しても不思議ではない。

まぁ、2人の人間が認識する文脈それ自体も、その文脈の解釈の仕方も異なるのは仕方がないとして、問題なのは、越前の方に圧倒的に強い権力があるということであろう。そして、権力者が文脈を異なる形で認識し解釈したとき、その権力がどのように発動するかは弱い立場にいる者には事前には予想できず、事後的にしか分からないんじゃなかろうか。

だからこそ生みの親は子供の手を強く引っ張ることが出来たのだろう。少しでも「大岡越前は私の振舞いを私と違って否定的に解釈している」ことを自覚してしまった場合は、自分の行動がどのような結果を招くかを予測できず、引っ張ることをためらったのかもしれない。

ここまで書いてきたことは、G・ベイトソンが『精神の生態学』に記した学習理論に基づいたものになっている…はず。間違ってたらごめんなさい。


さて、ここまで人間同士の関係について書いてきたが、僕は「力のある存在が弱い立場の人間に対してどのような影響を与えるか」という構図は、人間同士にだけ当てはまるわけではないと思う。つまり、自分に影響を及ぼす権力(他者とも言う)が、ある程度どのように自分に影響を与えるかの予測は出来ても、完全に因果関係を把握することは出来ないんじゃないか、ということである。ということは、権力者がいかに完璧な論理体系であなたに賞罰を下したとしても、権力者の視点とあなたの視点がどうしても一致しない以上、権力者は常にある種の不条理性をもってあなたに影響を与えるということになると思うのだ。平たく言うと、あなたはそういう判断を下したけど、私の知っている情報から考えると納得いかないし筋が通ってないよ、という立場になってしまうってこと。

今の文章の「権力者」の項に、株の値動き、世の中の仕組み、神の摂理、ツキの法則などなど、なんでも自分の力だけでは動かしえないような事物を当てはめても話はつながると思う。そして、自分は最善の行動をとったはずが、得体の知れない力によって、それこそ不条理に泣きを見るような目に合わされる、なんてことはよくあることだと思うのである。「うまくやってる」って思っていたら、実は自分は生みの親で越前に裁かれていた、ってこともありうるのだ。


(つづく)



  1. 2006/04/02(日) 01:41:01|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。