続・晴耕雨読

東北在住のへっぽこ医師ばんじょーの日々思っていることをつづったブログです。週2回くらいの更新を目指しています。スパムコメント対策のため、 コメント時に画像認証をお願いしております。お手数ですがご了承ください。

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山手線のアナウンス

先日山手線に乗ったとき、ドアが閉まる直前に「抑えないでください、抑えないでください」というアナウンスが流れた。

最初、「押さないでください」の言い間違いかと思ったけど、電車はがらすきだったし。一体、何を抑えられそうになったんだろうか?

PS
スズケンさん、Picsy blogにリンクを貼らせていただきました。これからもよろしくお願いしま~す。
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  1. 2006/03/29(水) 01:48:32|
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心地よいコミュニケーションって何だろう

先日、
FTEXT
http://www.ftext.org/
の会議の後で、恩師コウイチさんとお酒を飲んできた。
いや~、美味しいお酒でした。ごちそうさまです。

4時間ばかり話したのだが、話は縷々転々として身体知からSNS(ソーシャルネットワークサービス)、コミュニケーション論、恋愛論、心理学、近代科学の物語性、組織論などを語り合う。コウイチさんは心理学に精通しておられることもあり、相手の話を促すのが上手い。僕ばかり話し過ぎてはいかんなと思いつつ、ついつい話をしてしまう。心地よいコミュニケーションが出来るのである。

心地よいコミュニケーションって何だろう?僕は、その答えは相手を責めないことにあるんだと思う。「あなたは別の考え方をしたほうがいいよ」という言葉ではなく、「あなたはそういう考えを持っているんだね、私はそれに関してこういう考えをもっているんだよ」というやりとりが、それに当たるのではないかと思うのである。

例えば、うつ病の人には「頑張れ」という言葉は禁句だという話をよく聞くが、それは裏を返せば「あなたは頑張ってないよ」というメッセージを伝えるからだという。『親業』という本では、そのような「あなたはダメだ、もっとこうした方がいい」というような、相手の現状を責めるメッセージを「あなたメッセージ」と呼んでいる。そしてそのような「あなたメッセージ」が親子の関係を悪化させるから、親子関係で悩んでいる親には、そのようなメッセージを使うことはやめたほうがいい、と書いている。

心地よいコミュニケーションとは相手を変えようとするのではなく、相手のあるがままの状態を肯定すること、そこから相互理解が始まるのではないだろうか、と思うのである。相手を肯定するということを「共感する」と置き換えてもいいと僕は思う。そして、相手を肯定するという考えは、TA(交流分析)というカウンセリングの技法の一つである(確かそうだったはず)。

こう書くと、「なんだ、相手を責めなきゃいいのか、簡単じゃないか」と思われるかもしれないが、実は案外そうでもなくて。

相手の言うことを長い時間「ふんふん」とずっと聞いてて、相手から「君もそう思うでしょ」と言われたときに、理由は特にないけど同意したくなかったっていうような経験はないだろうか?

例えば、相手が30分くらいひたっすらしゃべり続けてる場合、それに対してうなずいてるうちに、いつの間にかぼんやりしてきて、目がうつろになっちゃってる自分を感じてるときとか。そういうのって、表面上は相手のしゃべりを受け入れているようだけど、実は身体が「もう相手の話を聞きたくない」っていう否定の意思表示を出していると思うんだよね。そういうときに相手から同意を求められたりすると、何か理由は分からないけどなんとなく否定したくなるのは僕だけではない気がする。

多分、相手の話を黙って聞き続けるということや、相手の価値観を理解し受け入れ続けるということは、ある種の自分自身の否定につながるんじゃないかと思う。そして、そういうときに自己防衛本能が働いて相手を否定したいと思うのは自然なんじゃなかろうか。でも、そのような相手を否定する心理が働くと、逆に相手に「ああ、自分は否定されたんだな」という不快な印象を与えちゃったりして。

村上春樹の『回転木馬のデッドヒート』に、言葉のしゃべれない少年が人の話を聞き続けた結果、最後に自殺してしまったという寓話があるが、話を聞き続けることは決して楽なことではないということを示しているように思う。

コミュニケーションを行うときに、相手を肯定するだけでなく、自分自身を肯定するということも大切なことなんだろう。でも、相手を理解し、より深いコミュニケーションをしようと思ったら、自分自身の否定につながる可能性があるんだよね。そう考えると、コミュニケーションって、常に痛みを伴うものだと思うんだけど、それでもその痛みを引き受けつつ、相手の価値観も自分の価値観も尊重しつつコミュニケーションをすることが、相手の「理解してくれた」という気持ちを引き出し、心地よさにつながることなのではないかと思うのだ。

分かりにくい理路で申し訳ない(ウチダ先生風に)。

でもね、ここまで書いてきたことを否定するように聞こえるかもしれないけど、結局言葉では、万言を尽くしても相手自身を表現しきれないし、自分自身も表現しきれないと思うんですよ。これについてはラカンが「自分の言いたいことには漸近的にしか近づけない」という言い方をしていたけど、だから、言葉数が多いコミュニケーションが必ずお互いの理解につながるとは言えないのかも知れないね。

それに、言葉はあくまでコミュニケーションの一手段であって、お互いの存在を確かめあう方法は、目線や相手との距離やちょっとした動作など、沢山あると思うんですよ。それを意識的に利用できるかどうかは別として。

なので、お互いにやわらかい雰囲気の中で杯を交わしつつ、
「この梅酒、美味しいね」
「そうですね」
なんてやり取りが、むしろ言葉を尽くしたコミュニケーション以上に、お互い理解し合えたっていう気持ちを生むこともあるのではないかと思うのである。

今日の一言:雄弁は銀、沈黙は金
  1. 2006/03/29(水) 01:30:30|
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安吾的分析ー日本人のメンタリティ

夕飯に餃子を食べ過ぎて強烈なにおいをまき散らしているばんじょーです。

本屋で立ち読みしている間、周囲に人がいなかったのは多分ニンニクのにおいがひどかったからでしょう。

ふんだ、友達少ないから孤独には慣れてるさ。

どんだけ友達が少ないかっていうと、もうこんな感じ。
友達いねーぜ


…彼よりは僕の方がまだ友達はいそうな気がするけど。


ほんとはなるべく周囲に迷惑をかけないよう、早めに立ち読みを切り上げるべきだったんだけど、ついつい長居してしまった。本屋さん、ごめんね。

何を読んだかっていうと、坂口安吾の『堕落論』と新渡戸稲造の『武士道』である。

堕落論はSENZAさんに勧められて読んでみたんだけど、なかなか面白い。安吾曰く、日本人には武士道という規範があるけど、なぜそのような規範あるかというと日本人には武士道精神がないからだ、と。日本人は、最初は抵抗しつつも最終的には二君に仕えたりするようなメンタリティを持っているから、そのような背徳を抑えるために規範を設ける必要があったんじゃないか、と言っている。こういう「このような規範がなかったら人間および社会はどうなっていたか」って考える文化人類学的視点は、その規範の有用性を検証する上で有用だよね(ってメタった文章だけど)。

さて、安吾の言うことも一理あると思う。昨日の敵は今日の友っていうことわざもあるように、憎みあった敵と仲直するようなウェットな側面を日本人は持っているような気がする。不義と知りつつも情にほだされる、みたいな。

それと対極にあるのが中国で、「驕れる中国 悪夢の履歴書」という本によると、中国人は弱ってる相手には情けをかけず、徹底的に叩きのめすらしい。確かに、項羽と劉邦の話や、三国志を見ると一族郎党を根絶やしにするなんてエピソードがよく出てくるよね。勝てるうちに徹底的に勝っておかないと、あとで反撃されて逆に殺されたりしたらたまらない、という考えがあるそうだ。

日本人的な考えだと腹を割って、自分の弱さをさらけ出して話すのが美徳とされるけど、中国では弱みをさらけ出すと逆につけこまれて徹底的に叩かれるらしい。水に落ちた犬は叩け、なんてことわざが中国にはあるらしいけど、だから、日本人的な価値観を持ったまま中国にビジネスで乗り込んでいくとひどい目に合うんだそうだ。

ちなみに上記の本に載ってたエピソードなんだけど、中国でビジネスをしていた台湾人が言った言葉がこれ。
「中国から生きて帰れれば地獄も怖くない」
中国ビジネスのすさまじさが窺える言葉ですな。ちなみに中国でのビジネスを考えている台湾人の多くは、中国でのビジネスで深入りして大怪我しないよう、利益を上げたら即撤退という短期決戦戦略をモットーにしているようだ。たいてい1年、長くても3年で引き上げるらしい。

ここまで書いてきたことについて、もちろん、この本には誇張している部分があるかもしれないし、中国人にも弱い人を助ける面が、日本人にも残酷な面が当然あるだろう。ただ、日本人のメンタリティで他国の人のメンタリティを推し量ろうとするのは危険なんじゃないか、という考えを持っておくのは、決して損なことではないと思う。

まぁ、友達の少ない僕にはあまり関係のない話ですが(しつこいって)。
  1. 2006/03/23(木) 04:05:25|
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アフォーダンス

本日はかつての会社の上司と呑んで来た。語り明かしてたら、5時半から11時まであっという間に過ぎてしまった。楽しい時間はあっという間に過ぎるものです。今度夏に帰省したときに一緒に飲みましょう。

さて、どのような経緯でそうなったのかは忘れてしまったが、飲みの席でアフォーダンスの話になった。アフォーダンスとは「動物にとっての環境の性質」のことである。例えばイスは座ることをアフォードする、すなわちイスは人間にとって「座れる」というアフォーダンスを持っている、と考えられる。

こう書くと、誰が見てもイスは座るという行為を促すように聞こえる。その考えの延長(っていうか原型かな)が、理想的なイスっていうものがきっと世の中に存在して、それを形作ることが出来れば誰が見ても満足なイスが完成する、なんていうプラトン的(アリストテレス的?)な考えだと思うんだけど、現実的にそんなイスが世の中に存在しないであろうことは直感的に分かると思う。だって、大きさ一つとっても、大人にとって理想的なイスは子供や老人にとっては大きくて座りにくいだろうからね。

アフォーダンス理論が面白いのは、ある特定の環境が万人に共通の価値を提供するのではなく、ある環境が個体に認知されたとき、その個体が自分の身体感覚を意識的、もしくは暗黙的に認識して、その結果として環境に対してある行為が促される=アフォードされる、という考え方を導き出したことである。

かなり分かりにくくてごめんなさい。イスの例を出すと、僕がイスを目で見たとき、その形から、無意識的に自分の身体の大きさや動きと照らし合わせて、「この腰掛の高さなら座れるな」と感じて、その結果イスに座る、ということになるわけである。

自分が見たものに対して、身体感覚からのフィードバックを受けて、その見たものに対してアクションが促されるということは、アフォーダンスには個人差があるということなんだけど、じゃあなるべく多くの人が同じようなアフォーダンスを感じるような形状を考えてみようか、ってな方向でも研究は進んでいるらしい。

例えば「誰のためのデザイン?」ドナルド・ノーマン著という本では、アフォーダンスを促すさまざまなものについて豊富な例が挙げられている。ドアノブの形状は回すことをアフォードするし、エレベーターの押しボタンの形状の三角は上行き、逆三角は下行きをアフォードする、などなど。

このアフォーダンス理論について関連した事件がある。

1982年2月にホテルニュージャパンで死者33名・重軽傷者34名を出す火災事故があった。聞いた話によると、宿泊客が逃げ損ねたのは、閉じ込められた客が、どうも引き扉を間違えて押し続けてしまったため、扉が開かず、そのうち後ろから客が折り重なって扉を引くこともできず、焼死(一酸化炭素中毒死)してしまったのだそうだ。押し扉か引き扉か、ぱっと見ですぐ分かるような造り(適切なアフォーダンス)にしていればもう少し事故の規模は小さくてすんだのかも知れない。

アフォーダンスっていう考え方が存在する、ってことを知ってるかどうかだけでも、ずいぶん違うと思うんだよね。ただ、そういった「今の仕事に直接関係ないけど将来役に立つかも知れないな」的なことまでは、精神的な余裕がないと気が回らないかもしれないね。

「ホリエモンに至る病」で、即物的な価値観の持ち主は、起こるか起こらないか分からない事故のために精神的および金銭的リソースを割かないだろうということを書いた。逆に言えば、そのようなことに気を回すことが出来る余裕が、個人や集団の”豊かさ”につながり、そしてその豊かさへの投資が、いざというときに自身を助けることになるんだと思う。けど、こういう無形の価値観に金銭を稼ぐこと以上の価値を見出すような思想は、果たして資本主義と相容れるんだろうか?

なんにせよ、余暇は大切ですよね、SENZAさん。
  1. 2006/03/22(水) 02:28:36|
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学歴無用論の復讐

遅ればせながら…。
おかげ様で1000ヒットを超えました。訪問者のみなさま、ありがとうございます。これからも「続・晴耕雨読」をよろしくお願い申し上げます。


さて、先日「会社が放り出したい人 一億積んでも欲しい人」(堀紘一著)を読んだ。その中に書いてあった、ソニーの新卒採用の方針について、興味深い内容だったのでご紹介したいと思う。

ソニーの創業者の盛田氏は学歴主義に反対し、採用試験の際に学校名を問わずに人物本位で採用をしていったらしいんだけど、それで多種多様の大学の出身者がソニーに入社しているのかと思いきや、いつの間にやら社員の大半が早稲田と慶應の出身者ばかりになってしまっていたんだそうだ。

なぜそうなったかというと、この2校の学生は如才なく面接をこなすので、他大学の学生より採用されるケースが多いらしい(東大・京大はエリート的な感じがするらしく、面接官受けが前2校よりは落ちるようだ)。東大30人、早稲田20人、慶應20人、一橋15人…、なんて大学ごとの採用人数枠を決めて採用すると採用が一定の大学に偏って社内で学閥が出来やすくなるんじゃないか、って理由で大学名不問で採用試験をしたはずが、いつの間にか早慶のOBでソニー社員が占められるようになったのは皮肉な話である。

ここからは僕の推論だが、ソニーにおいて早慶の学生の採用が増えたのは、早慶の学生が単に面接官受けが良いから、ってだけではない気がする。早慶のOBが増えるに従って、面接官も早慶の出身者が占めるようになるだろうから、採用に関しても自分たちと同じ雰囲気を持つ学生を自然と採るようになるんじゃなかろうか、と思うのである。

堀氏は掲著の中で、「伸びる組織に重要な条件の一つに「多様性」があり、もしも今後ソニーが活力を失っていくようなことがあれば、それは採用にまで「学歴無用」を貫いた点にあるかもしれない」と書いている。活力を失うかどうかは分からないけど、採用する人材が偏ってしまったという点ではソニーは当初の思惑からずいぶん外れてしまったんだろうな~。

PSPが任天堂DSに売り上げで負けているのは(って話を昔聞いたんだけど、今は巻き返したのかな?)上に書いたことが関係あるかなぁ、と思ったけど、関係ないですよね。適当書いてごめんなさい。
  1. 2006/03/18(土) 03:50:18|
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コショウ強盗

今実家に戻って来ております。2~3日前に秋田を出るときはまだ10センチほど雪が積もっていたのですが、やっぱり千葉は暖かくていいね。

さて、母親から聞いた話なのだけど、先日どこかのコンビニで、2人組の男がコンビニにやってきて、そのうちの1人がコショウの粉をレジを打ってた店員に投げつけて、ひるんだスキに現金十数万円を奪って逃げたそうである。もう1人の男は外でスクーターをふかして待機してたらしいから、計画的な犯行だったみたい。

で、コショウをかけられた時の店員が言った言葉がこれ。

「俺を野菜炒めにする気か!」

この店員さんは吉本入りが有力視されているそうです。

この事件についてテレビで専門家のコメントもあったらしい。「顔面にコショウをかけられたら、それは大きなダメージを受けるでしょう」
この専門家が何をご専門にされているのかが気になるところである。

盗みはダメだと思いますが、日本って平和なんだな~、と思う事件でした。

  1. 2006/03/16(木) 08:50:05|
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割に合わない犯罪

昨日、ある神社のお賽銭箱から2円を盗んだ男に、懲役1年10ヶ月の判決が下ったそうだ。神社の関係者曰く、たとえ2円でも浄財を盗んだことを見逃すわけにはいかないんだそうで。
2円で懲役2年近くかぁ…。犯人にとってもそうなんだけど、罪の大きさと刑務所の運用費の費用対効果の面から見ても割に合わない気がするなぁ。金額の大小ではなく、神仏を冒涜したことが問題なのだ、って言われると口出ししないほうがいいのかも知れないけど、世俗の司法制度に頼る前に犯人に人の道を諭すっていうことは出来なかったのかな、なんて思ったりする。まぁ、そういう役割はお坊さんの役目で神主さんの仕事ではないのかな。

今日の一言:鬼神は敬してこれを避く
  1. 2006/03/15(水) 11:36:13|
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Hide-and-seek~暗闇のかくれんぼ~を観て<激ネタバレにつき注意!!>

2005年春に上映した、ハイドアンドシーク~暗闇のかくれんぼ~をレンタルして観た。ロバート・デニーロと名子役ダコタ・ファニングが競演してる映画で、僕としては面白いな~、と思って何回も観たんだけど、ネットで調べてみるとどうも評判はよろしくないらしい。

例えば、allcinemaっていう映画紹介HPのユーザーコメント欄には、「結末で大どんでん返しがあるって売り込みだったけど、途中で筋が読めてしまってつまらなかった」って感じのコメントが散見されている。他のサイトでは、「結末のどんでん返しが面白かった」って感想を書いてる人も見受けられるけれども。

で、面白かった派も面白くなかった派も、チャーリーが何者か、という視点で映画を観ている感じがするんだけど、実は僕はそれよりむしろチャーリーが何をやっていたかに興味をそそられまして。あくまで僕の見立てだけど、この映画、巧妙にチャーリーがしていたことを映さないようにしてるんですよ。どれだけ巧妙かっていうと、チャーリーが何をしていたかについて劇中で描写しなくても、映画の筋に違和感を感じないくらい。劇中の主要人物が何をしていたかの説明がすっぽり抜けてたら、大抵の映画であれば「んん?この人、映像に出てこない間は一体何をしてたんだろう?」って思う気がするんだけど、この映画ではそういう違和感があんまりないんですよ。

で、ここまで書いてきて、ハイドアンドシークを観ていない方は「チャーリーって誰?」っていう疑問を持たれたのではないかと思うので、簡単にあらすじを。以下はAmazonのレビューより。

『9歳のエミリー(ダコタ・ファニング)は母の自殺をきっかけに心を閉ざしてしまった。父親のデビット(デニーロ)は娘の心の傷を癒そうとNY郊外に引っ越すが、娘は架空の友達“チャーリー”と遊ぶようになった。そのときから飼い猫が殺されたり、バスルームに残酷な落書きがあったりと異変が次々と起こる。すべてチャーリーの仕業なのか…』


おそらく、最初に映画を観た方は、こういうあらすじで映画を解釈すると思う。以下ネタバレにつき知りたい人だけ文字を反転させてみてね。

娘は最初チャーリーが好きだったが、チャーリーの粗暴な性格に気づき、自分の身の危険を感じてチャーリーに嫌悪感を抱くようになる。一方、チャーリーによって父デビットの友人エリザベスが殺され、警察が家に捜査にやってきたとき、デビットがスコップで警官を殴り倒す。実はデビットは二重人格で、もう一方の人格がチャーリーだったのだ。妻の浮気をきっかけに二重人格が発症し、妻が自殺したというのはウソで実はチャーリーが絞殺したのである。娘エミリーは人殺しをするチャーリーを目の当たりにして逃げようとし、チャーリーは自分を嫌うエミリーをナイフで刺し殺そうとする。間一髪のところで、デビットの友人のカウンセラーが助けに入り、チャーリーを銃で撃ち殺し、エミリーはそのカウンセラーの家に引き取られることになる…。


ってな感じで、こうあらすじを書くと違和感なく感じるんだけど、先にも書いたように、チャーリーがエミリーと真夜中に何をやっていたのか、全然描写がないのだ。タイトル通りかくれんぼだけだったのだろうか?


例えば、こんなシーンがある。

チャーリーが現れるようになってから、エミリーは可愛がっていた人形を自ら壊した。しかも顔を押し潰して。しかも、父の友人の娘が家に遊びに来たときも、エミリーは、その娘の持ってきた人形の顔を潰しているのだ。そのときにエミリーが言った言葉が「うちに来ちゃダメ…(人形を見せながら)こうなるから」

人形


最初にこのシーンから考えたのは、エミリーはチャーリーから何らかの虐待を受けていることを示唆するんじゃないだろうか、ということであった。自分が受けている抑圧をより弱いものにぶつけているのではないか、と。でも、映画ではエミリーはチャーリーが好きだ、と言っているし、特に虐待を受けているような身体所見もない。


で、またしばらく観ていくと、父デビットの友人の女性エリザベスが家に食事を作りに来てくれたときに、エミリーが妖艶な黒いドレスを着て夕食に同席するシーンがある。このエリザベス、デビットに惚れてるっぽいんだけど、娘エミリーはどうもそれが気に食わない様子。その友人の女性が持ってきた子供用の本を受け取ったあと床に落として、拒絶したりして。でも、父親の恋路を邪魔するにしては、雰囲気が違う気がする。なんていうか、娘の父に対する反応というよりむしろ、自分の恋人を取られたくない女性の反応に近い気がするのだ。おしゃれにしたって、9歳の女の子が黒のドレスは着ないんじゃないかなぁ。

エミリー


まぁ、それ以外にもいろいろ気になるシーンはあるんだけど、これらのシーンから僕が出した推論は以下の通りである。


チャーリーはエミリーと肉体関係を持っていて、エミリーはそれを愛情だと思い込もうとしている。しかしエミリーは成熟した女性ではないため、男性と肉体関係を持つためには自分の幼児性を否定しなければならず、それが人形を壊すという行為に表れている。エミリーが、エリザベスの娘にした「人形を壊す」という警告は、「あなたも私のような目にあうから来るな」という警告である。他方大人の女性であるエリザベスには嫉妬心を持っている。ところが、チャーリーがエリザベスを殺し、警官を殴打するに至って、チャーリーのエミリーに対する独占欲が並ではないことに気づき、恐れを抱くようになる。チャーリーが自分を思いどおりに出来ないと分かったら、むしろ自分を殺そうとするのではないか、と…。


…荒唐無稽でしょうか?でも、こう考えると映画を観たときに少しずつ感じた違和感が解けていく気がするのである。夜中にデビットの顔をなでる女性の指は、どうにも子供の指のような気がするけど、上に書いたような話の展開だったら、夜中にわざわざエミリーが父親の顔をなでる理由も察しがつくわけで…。

手


ちなみに、ほかに気になった箇所について。

なぜ異常な隣人が出てきたり、真夜中に大家がやってくるか?

あれは恐らく隣人が異常なんじゃなくて、隣人がチャーリーのときのデビットを見てしまったから、エミリーを心配して来たのではないか、と。デビットの視点から映画を観ると、エミリーを執拗に追い回す単なる隣の変なおじさん、と見えてしまうかも。

風呂場のメッセージは?
You let her die.(お前が彼女を殺した)
とあるんだけど、これって妻のことを指しているのか?「エミリーの心を殺したのはお前だ」という、チャーリーからデビットへの責め句とも読み取れる。


なお、2:06分の謎と、エミリーが寝るときに途中からドアを閉めてもいいと言い出すようになった理由が分からないんだけど、そこはおいおい考えていこうかと思う。

まぁ、ここまで書いてきたことは僕の推論の域を出ないんだけど、こうやってこの映画を観てみると、また一味違う楽しみ方が出来るのではないだろうか。この映画について、「お前の解釈は間違っている」とか、「別の解釈があるよ」って方は、教えてもらえると喜びますです、はい。


追記

この映画、よく出来てると思うんだけど、一箇所これはないだろ、ってところがあるんだよね。

それは、チャーリーが実は妻を絞殺してから手首を切って自殺に見せかけるようにした、というシーンがあるんだけど、絞殺したあとで手首を切っても血は出ません。だって、心臓のポンプ機能が停止してるから。それ以外にも、絞殺だと顔に溢血点が出るといった特有の徴候が現れるので、警察が現場と遺体を見た時点で、検死に回って、絞殺後に手首が切られたと判明してチャーリーはお縄、というのが現実で起こりうる展開なのではないかと思う。まぁ、映画なので、ここは見逃すということで。いや~、法医学の授業を聞くと、完全犯罪って難しいんだな、と思う次第である。
  1. 2006/03/14(火) 04:23:47|
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相手の長電話を止めたいときの言い方

最近「大統領の陰謀」って映画をツタヤで借りてきた。アメリカで起きた事件を実写にした映画で、ニクソン大統領のウォーターゲート事件の真相をジャーナリストの主人公2人が暴く、みたいな話だったんだけど、その中で、主人公が知り合いに電話でかなり突っ込んだことまでインタビューしたとき、それを嫌がった相手が電話を切るために使った口実がこれ。

「隣の奥さんが誘拐されたから、電話は後にしてくれ」

電話を切りたいって気持ちがこれでもかっていうくらい伝わる表現ですなぁ。これって「あんたと電話したくない」ってストレートに言うのと、どっちが相手に電話を切らせやすいんだろうか。
  1. 2006/03/12(日) 11:54:22|
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引きこもりを支える負の刺激(後編)

(続き)

神経症を治療する方法に森田療法というのがある。その方法の一つとして「絶対臥褥」があるんだけど、それは数日間ひたすら寝るだけというもの。患者さんは、最初は仕事のストレスとかでうつうつとした気分で治療にやって来ているから、「死ぬほど寝られてこりゃラッキー」ってな感じで寝続けるらしいんだけど、そのうち刺激のない生活に耐えられなくなって、「何かしたい」という気持ちになる、つまり生命力の回復へと向かうらしい。人間、刺激がない状態が続くと幻覚を見るようになる、すなわち脳が自ら刺激を作り出すらしいんだけど(全く刺激を被験者に与えない実験がアメリカで行われたそうです。被検者は動けず、目隠しや耳栓をされ、室温は体温と同じ温度にして、食事は(おそらく)点滴で、という状態で何日間か過ごしてもらったらしいです。で、どうなったかというと、被験者が発狂寸前に陥って、そのためあまりにも危険な実験だという結論に至ったらしい…。「刺激のない世界」(新曜社・絶版か?)という本に詳しく書かれているので、興味のある方はそちらを)、絶対臥褥と刺激を与えない実験の話は、生きていく上で刺激の重要性を教えてくれる。

ってことは、逆に刺激がコンスタントに与えられているような状況であれば、人間、その状態にとどまることを、意識的か無意識的かに関わらず、選んでしまうのではないだろうか。

ここから少し専門的な話になる(ごめんなさい)。刺激がなくなるなどして、当人がその状態にいることが耐えられなくなるのを、ベイトソンは「底つき状態」と呼んだ。例えば、アルコール依存症では、家族が離れてしまうことが底つき状態につながるらしい。家族の冷たい視線というのがお酒を飲む原動力――負の刺激――になるので、その家族が当人を見捨てることで、刺激がストップするからなんだそうだ。そして、底つき状態を体験するまでは、悪癖や依存症といった状態を継続してしまうらしんだけど、当人が底つき状態に至るのを妨げ、当人がアルコール依存や引きこもりを続けさせるような要因をカウンセリングの用語(多分)では「イネイブラー」と呼ぶ。すごく皮肉な話なんだけど、アルコール依存症に罹っている人のお金の浪費や暴力に耐えている家族というのは、アルコール依存症に陥っている当人にとってはイネイブラーであるらしいんだよね。家族が耐えれば耐えるだけ当人は酒を飲み続けてしまう、と。引きこもりの事例でも、叱咤激励したり正論で説教をする家族がイネイブラーになっている可能性があるんじゃなかろうか。

じゃあ、家族はどうすればいいのか?斎藤先生が言うには、子供が引きこもってしまったときは、親はそれを責めないようにしつつ、コミュニケーションを保つことが大事であるらしい。「今日はいい天気だね」とかね。これくらいわざとらしいコミュニケーションでも、引きこもりを責めるよりは全然いいらしいよ。もちろん、家族がこうすれば全ての事例でうまくいく、って訳ではないだろうけどね。

そして、引きこもっている当人にとっての目標は、適切なコミュニケーションを続けて行えるようになることなんだそうだ。もっとも、その適切なコミュニケーションが何なのか、って聞かれても答えられないんだけどね(普段、人間同士が当たり前のようにコミュニケーションを行ってるけど、実はそれってものすごい大変なことなんだと思うんですよ)。


さらに、これは僕の考えなんだけど、普段どおりのコミュニケーションを行っても、人を傷つけたり、人から傷つけられたりすることもあるということを学ぶこと、なのではないかと思う。引きこもりに至る過程として、就学や就職などで新しい環境に移ったときに、今まで普通に自分が行っていたように人と接しようとしたけどコミュニケーションが上手くいかず、それが何回も重なって他人とコミュニケーションを取るのが苦痛になって引きこもるようになったというのが、多分よくあるケースなんじゃないかと思うんだけど、でも、いつも誰も傷つかずに済むような完璧なコミュニケーションっていうのは世の中に存在しないんじゃなかろうかねぇ。極端に言えば、自分がただ生きて呼吸をして生きているだけでも他人に害をなす可能性があるんだと思う。他人と生きていくっていうのはそういうもんだとあきらめをつけて、せめて他人と自分を、比較的傷つけないように気を遣ってコミュニケーションを行うよう努力してみようか、って発想を転換してみるといいのではないかと思う。


これってベイトソン的に言うと、「完璧なコミュニケーションなどない」というコンテクストを学習する、ってことになるだろうか(これは学習Ⅲであろうか)。もしかすると、禅でいう「悟り」っていうのもこれなのかもしれないね。まぁ、禅の思想は「ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環」でしか読んだことがないので、僕の勘違いの可能性が十二分にあるんだけどさ。

引きこもる前提として、周囲とうまくコミュニケーションが取れない、って感じていることが挙げられると思うんだけど、それって裏を返せば、社会に対する感受性が強く、自分のコミュニケーションの把握能力が高いと取れるんじゃないだろうか。ただ、周囲に適合できるようなコミュニケーションの取りかたが分からないというだけで、もし社会に適応できるようになれば、相手の気持ちを感じ、汲み取ってあげられるような人間になる可能性を持っているんじゃなかろうか、と思ったりする。引きこもりの人たちが適切なコミュニケーションを取れるようになることを祈りつつ、筆をおくことにします。では。



追記・業務連絡

Yさんへ、臨心の発表のネタをここで挙げてしまってごめんね。でも、まだ引きこもりについての発表のネタは残ってると思うので、このブログを参考にしてもらいつつ(もし参考になるところがあれば)、新学期に発表してもらえると嬉しいです。いや~、本当はあなたの発表を待ってこのブログを書けばよかったんだろうけど、つい我慢できずに書いちゃいました。ご容赦を。
  1. 2006/03/12(日) 04:15:48|
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引きこもりを支える負の刺激(前編)

3週間前くらいのテレビ(ずいぶん前の話だけど)で、引きこもりが増えていることについて特集をやっていた。

僕も春休みに入ってからは、家にこもって、一日中誰とも話さずに本を読んでいたりするので、たまに人に会うと「最近引きこもってるんですよ」なんて話したりするんだけど、本当の引きこもりはこんなお気楽なものではなく、苦しい思いを胸の内にかかえているのだと思う。

って書くと、「引きこもってるのは甘えの精神からきているからで、同情などせず、無理やりでも働かせるべきだ」なんて思われる方もいるかもしれない。確かにそれは正論なんだろうけど、ニートが50万人を超えると言われる現状(ニートと引きこもりって、多分かなりの人数がかぶっているんじゃないかと思うので、引きこもりも数十万人くらいいるのではないかと思うんですよ)を鑑みるに、正論だけでは対処しきれない部分があるんじゃないだろうか。

っていうか、むしろそのような正論が、引きこもりと称される人たちの気持ちを焦らせ、傷つけている可能性もある。

「学校へ行け」とか「なんで人と話をするっていう当たり前のことが出来ないんだ」っていう周囲の言葉は、今の引きこもっているという状態を否定していると思うんだけど、学校や職場へ行ってコミュニケーションが上手くいかない状況と、どちらが自分をより否定されていると感じるんだろう?僕は五十歩ドングリを笑うって感じだと思うんですよ(先日ご紹介した造語コトワザを使ってみました)。

ネズミに不定間隔で電気ショックを与えるという実験があって、ネズミが止まってても、逃げても、何をやっても電気ショックを与えたらしいんだけど、そうするとどうなるか?ネズミはその場に縮まりこんで、震えたままになるらしい。どうしてそういう行動をとるのかはよく分からないんだけど、多分何をしても自分にとって悪い刺激がくるのであれば、何もせずに嵐が過ぎるのを耐えて待つという感じなんじゃないだろうか。このことは「誤診だらけの精神医療」って本に書いてあったんだけど、これって引きこもりの人たちが置かれている状況と似ているような気がする。家にいても家族からの無言の圧力がかかり、外へ出ても上手く人と接することが出来そうにないし、部屋の中で一人閉じこもっていても、「自分は引きこもりである」という感覚にさいなまれ続けて…。

ごめんなさい、引きこもりの方をネズミと比較するのも失礼な話なんですが。

先日のウチダ先生のブログ「不快という貨幣」に興味深い洞見が書かれていた。家で親に怒られるなどの不快に耐えていることが労働に値するのではないか、という考えである。世のお父さんが会社に行って本当はあまりやりたくもないデスクワークに耐え、お給料をもらうっていうようなことが、家庭における子供の立ち位置(親の小言に耐えて食事やお小遣いをもらったりしている)と重なっているんじゃないか、と。

同じようなことが、精神科医の斎藤環先生の書いた「社会的引きこもり―終わらない思春期」にも実は書かれている(と思う)。同書にはこう書かれている。
「(正論とか叱咤激励といった刺激は)本人にとってはプレッシャーやストレスを与えるだけで、活動をはじめるきっかけにはなりません。むしろ刺激が加えられれば加えられるほど、いっそうひきこもりが深まってしまいます。そして家族はさらなる不安と焦りに駆られ、なかば不毛と知りつつも刺激を繰り返すことになるのです」(p105)

家族や社会からのプレッシャー→本人はさらに焦ったり傷ついたりする→でも外へ行ってもやっぱり傷つくだろうから家にこもる→家族は焦ってプレッシャーをかける→…
という悪循環が発生していると同書では指摘してるんだけど、これってこう解釈することも出来ないだろうか。不快という刺激に耐えていることで、親の庇護の元にいることが出来ている、と。親は引きこもりの子供にプレッシャーをかけつつも、食事を作ったり洗濯をしてあげたりしてるんだと思うんですよ。たまにお小遣いもあげたりして。人間社会という視点から見れば社会に適応できていないかも知れないけど、生命体として生存状態を保つという観点から見れば、適度な刺激に耐えて報酬をもらっている状態に自らを置くというのは、理にかなった行動だと思うのである(多分これはベイトソン的な物の見方だと思うけど)。

ちなみに、上述の斎藤先生曰く、引きこもりの人たちはうつ病とは違うそうです。引きこもりの場合は、表向きは引きこもって行動力が低下しているみたいだけど、内心はすごく焦ってるらしい。社会に適応しなければいけないという気持ちと、社会に適応できない自分との間に葛藤を感じている、と。ちなみにうつ病は、行動力が低下し、かつ精神的にもやる気が起こらない状態らしい。うつ病の場合は身体症状なので、薬で治るという点でも引きこもりとは異なるそうですよ。

(続く)
  1. 2006/03/12(日) 04:08:13|
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ドーナツと団子の研究

「たくろふのつぶやき」(通称たくつぶ)という、僕がよく訪問するブログがあるんだけど、そちらの2006年02月24日(金)の日記から。

同志社大学の教授って、こんな研究をしているのか~。


堀内教授



って、多分、本当にドーナツに団子を押し込んだりドーナツや団子を食べたりしてる訳ではなくて、ドーナツ状の物体(トーラスと言うらしい)の中央かどこかに球状の物体を押し込んだときに、どこにどのように力がかかるかを微分方程式かなんかで解析する、っていうような研究だと思うんだけど…。

堀内教授、大雑把すぎ!

ドーナツと団子の研究がしたくて堀内教授の研究室を訪れて、実は全然違う研究をしてることが分かってしょんぼ~りしてる学生の姿が目に浮かぶようだ(ってそんな学生はいないか)。

とかいって、本当にドーナツと団子の味の研究とかしてたら面白いなぁ、って思ったりした。


PS.
たくつぶさんの2006年02月01日(水)の日記に、面白いことわざが載っていたので転載。

「五十歩ドングリを笑う」

う~ん、実にいい具合に混ざってますなぁ。今度使わせていただこうかと思います。
  1. 2006/03/05(日) 13:33:01|
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物理学の魔術性について

2/25~26まで、東京で行われたFテキストの会議に出席してきた。

Fテキストでは、すでに「数Ⅰ」「数A」の2冊の数学の教科書(と言っても難関大学受験にも対応できるレベルの知識まで網羅してますが)を出版している。今回の会議の議題の一つは、新たに物理の教科書を出版することについてであった。どのような教科書にするかについては喧々諤々の議論があったのだが、ここではその経過ははぶくとして…。で、どんな語り口の教科書にしたいかという話になったのだが、そこで恩師コウイチさんが一言。

「物理学の体系の危うさを読者に気づかせるような語り口にしたい」

コウイチさんは、物理学の体系は危ういにも関わらず、大半の人間に「物理体系は完璧で、将来もずっと世の中で不変の価値を持つ」と信じ
させてしまうような物理学の理論を「魔術的だ」とおっしゃっていた(不肖の弟子はそう受け取りましたが、それでいいんですよね)が、非常に興味深い考えだと思う。

そうなんだよね、物理学の理論って、別に未来永劫不変の知識ではないんだよね。物体やエネルギーの振る舞いを矛盾無く説明するのが物理の理論だと思うんだけど、それってこういう限定句がつくんだと思う。「人間の認識できる範囲の世界における(物体やエネルギーの振る舞いを矛盾無く説明する)」って。

例えば、ニュートンは光を「粒だ」と主張し、ホイヘンスやヤングと言った物理学者は「光は波だ」と主張したんだけど、それまでの物理の世界では、粒(これは直進する)でありかつ同時に波(これは蛇行する)である物質は存在しないことになっていたわけで。で、これを解決したのがアインシュタインの「光量子論(光は粒子でもあり波でもある)」であり、そこから量子力学が発展していった(らしい)。

参照:キャノン・サイエンス・ラボ

上の例を別の視点から見てみると、より小さい物質の世界を観察する技術ができたんだけど、新しく発見された世界と今までの世界との矛盾が生じ、そのミクロな世界での物質の振る舞いを説明する理論が新たに産まれる、って話なんだと思う。それって、ニュートンの頃の物理学は「人間の認識できない小さな世界には通用しないような、当時の人間の認識できる世界の中でだけで通じる理論」であったと言えるんじゃないだろうか。確か似たような話を池田清彦が「構造主義科学論の冒険」で書いていた気がするんだけど…(っていうか多分僕が池田清彦の論に似せてこの考えを編み出したんだろうけどね)。

ってことは、100年後の物理理論から見れば、今の物理理論が刷新される可能性は十分にあると思うのである。

でも、今までの教科書って、上から「正しいこと」を押し付ける視点のものが大半だった気がするんだよね。「これは当然のことだから、疑問に思わず頭に叩き込め」と。でも、その正しさは危ういものなんだよ、もっと疑ってかかった方がいいよ、ってなテイストを全面に出して行こうよ、っていうのが今回のFテキストの議論であり、コウイチさんが言われた「物理学の魔術的な部分を明るみにする」ことである訳だ。

…多分、そういう議論でいいんだと思うんだけど。Fテキの皆さま、間違ってたらごめんなさい。

でも、そんな危うさを全面に押し出したら、教科書としては不適切なんじゃないか、という声も出てくるかもしれない。「不確実な知識を教えるような印象を生徒に与えるのは教科書の役割ではない」と。

でも、そもそも物理学の理論に不確実な要素が含まれている以上、それを隠すことが、ほんとうに生徒にとってデメリットを超えるメリットを与えることにつながるのかねぇ。なんてことを書き始めると長くなりそうなんで筆を控えることにして。

僕個人としては、教科書に物理学の魔術性を全面に押し出すことに賛成である。完璧で未来永劫不変の理論があるなら、そんなのは必要なときにだけネットで検索すればいいんじゃないの、って思ってしまうのである。先の分からない話の方が、ワクワク感が出て、生徒の勉強意欲をより引き出すのではないかと思うんだけど、どうでしょう?


PS.
そういえば、この話の流れから数学の魔術性に移って、
「数学の世界は10進法が主流だけど、10進法が数の数え方として当然だと考えるのってどうよ」ってな話になったとき、僕が

「僕たちの世界が、10進法で数を数える世界であることを選んだために、10進法で数を数えない世界であったことを選んだ場合と比べて何を得て何を失ったのか、そんな話を教科書に書いて欲しいですね」

ってなことを言ったら、すかさずスズケンさん(Fテキ司会者の一人)から「それは文化人類学的な考えだね」というツッコミが返ってきた。僕は今現代思想(文化人類学を含む)を勉強してるから、こういう考えがすぐ浮かんでくるんだけど、そこに即座に反応してくださるところが、さすがだ~!、と感心してしまったのであった。

  1. 2006/03/05(日) 13:08:31|
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