続・晴耕雨読

東北在住のへっぽこ医師ばんじょーの日々思っていることをつづったブログです。週2回くらいの更新を目指しています。スパムコメント対策のため、 コメント時に画像認証をお願いしております。お手数ですがご了承ください。

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ホリエモンに至る病~その2~

ホリエモンのパーソナリティを現代思想的に分析しようかと考えてこのブログを書こうと思ってたんだけど(かなり事件の尻馬に乗ってる感がありますね、へへ)、最初の構想のまま書きつつけると、とんちんかんな方向に話が行ってしまいそうだということに気づいた。というのも、情報を集めてるうちに、ライブドア事業の周辺にえらくきな臭い香りが漂っていることを感じてきたからである。

1/18に起きた、HS証券の野口副社長が沖縄で自殺した(と言われている)事件は、(おそらく)野口氏が非常ブザーを2度鳴らすなど、現場状況から他殺の線が有力であったところを警察が自殺として無理やり手続きした(週刊文春2006年2月2日号に詳細が載っている)らしい。しかも、同号の文春にはホリエモンがオンザエッジ(ライブドアの前身)時代に広域指定暴力団傘下の組関係者から数千万円を借りたとも書いてある。銀行の融資じゃないってとこがヤバい臭いがする。

ちなみにその組関係者からも「ホリエモンは…、裸足にスリッパみたいな格好で、礼儀を知らないやつだ」なんて言われてたらしいが、よく無事に借金を返せたなぁ、と思ってしまう。

ライブドアに社名変更してからもそのようなつながりは続いていたんだろう。野球球団の近鉄を買収するときも、本当はその時点でライブドアは数十億の赤字をかかえていたはずが、10億~30億用意するなんて話をしていたらしいし(結局買収には至らなかったけど)。ナベツネも日枝会長もそりゃあライブドアの参入を敬遠したくなるよね、と思ってしまう(ウチダ先生のブログより)。ちなみに、野口氏があのようなことになってから逮捕までの間、ホリエモンは関係者に「命を狙われている」なんて漏らしたらしい。

これは僕の想像だけど、最近まで、裏社会からお金と企業買収のためのコネを提供してもらうかわりに、投資事業組合でライブドアの資金と一緒に闇マネーをロンダリングするなんてことが行われていたんじゃないだろうか。

ここまでの話はネット上で散見される情報を集めただけなので、事実かどうか分からないのだが、ライブドア幹部が逮捕された後もマスコミが執拗にネガティブキャンペーンをやってたり(読売が1/30に「ライブドアの経営モラルの欠如を指摘する識者は73%」なんて記事を載せましたね)、国会でライブドアとのつながりについて答弁を繰り返してるのを見ると、どうも裏に何かあると思ってしまう。

ここからも僕の想像であるが、今回のライブドア株の売り殺到も、マネックス証券が担保掛目を0にしたことが原因、すなわちトリガーを引いた、って言われてるけど、これも誰かが裏で糸を引いてるんじゃないかなぁ。場中に掛目0にするのは証券界の常識からかけ離れてるらしいし、まさかそれを知らない松本社長でもあるまい。中堅どころの動きやすい証券会社に損な役回りが与えられたってところで、後日見返りがあるんじゃないのって、勘ぐるのが好きな僕としてはそう思ったりする(株で損をした方がいるのにこんな予想を立てるのも不謹慎かもしれませんが。それと、実は掛目っていうのがよく分かってないので、間違ってたらすみません)。

もしライブドアが裏社会につながりがあるとして、何で経団連に入れたのか、とか、何で自民党が一時公認したのか、って話になると思うんだけど、単純に知らなかったってことは考えがたい。利用しようとしたのか、それとも権力争いのコマにしようとしたのか。想像がつかない。

ちなみに立花隆が、2005年4月の「メディア-ソシオポリティクス」(立花氏のHP←山根治blog「ホリエモンの錬金術」経由)でライブドアと闇社会とのつながりを予想していたが、いやはや、話題になっているところでは話題になってたんだね、って思う。

まぁ、これらの裏事情が本当だとしたら、マスコミはライブドアの経済界参入を阻止するべく意図的に世論を操作しようとした可能性があるわけで、マスコミの記事をもとにホリエモンのパーソナリティ分析をしようとすると的外れになる可能性があるわけで。でも、だからといってホリエモンの著書を買う気にはなれないけど(ホリエモングッズは不良債権化しているらしいけどね)。

(続く)
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  1. 2006/01/30(月) 22:57:47|
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ホリエモンに至る病~その1~

先日、ある部活の追い出しコンパに参加するために、タクシーに乗って会場に向かった時の話(雪道なんで、自転車で行けなかったんです)。

ちょうどそのころ、ライブドアの粉飾決算疑惑で幹部4人が逮捕されていたので、タクシーの運転手さんに話をふってみた。

「ライブドアの堀江社長についてどう思います?」
「いつかああなると思っていましたよ。仕事っちゅーのは額に汗水たらしてするもんでしょ。金を右から左へ動かして稼ぐってもんじゃないよ」

バックミラー越しにしか見なかったけど、そのタクシーの運転手さんは60歳を過ぎてる感じだったろうか。そういえば60を過ぎた僕の父親も、ライブドアは虚業だ、ってな感じでホリエモンを嫌ってたなぁ。

ホリエモンが汗水たらして働いてないか、っていうとそうでもないように思う。サイバーエージェント社長の藤田晋が書いた「渋谷で働く社長の告白」にも、サーバーが夜中にダウンしたときにホリエモンに修理してもらうよう連絡したら、すぐに駆けつけてくれた、なんて書いてあった気がするし(ずっと前に読んだ本なので記憶違いだったらごめんなさい)。あれだけ世間で取り上げられてたんだから、労働時間にすればかなり働いているんじゃないかな。

そう思いつつも、僕もホリエモンはその仕事内容に比べて、稼ぎ過ぎなんじゃないかと思っている(ちなみにウチダ先生はホリエモンは詐欺師の声をしていると言っているが、僕もそう思う)。いや、仕事内容を詳しく把握してるわけじゃないから印象だけで言ってるんだけど、それでも僕がそのような印象を受けてしまうのは、多分ライブドア本体がやっている仕事が何なのかがよく分からないからなんじゃないかと思う。何かモノを造ってるわけじゃないし、銀行や保険会社のように金融サービスを行ってるわけでもないっぽいし…(グループ会社はやってるみたいだけど)。

(続く)
  1. 2006/01/28(土) 22:17:57|
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面白いホームページ1

笑える一言.comというHPでこんな画像を見つけた。

おかずセット


キャベツがおかず?しかもこれってタダになってる?

ってなことで、クラスメートのS君、情報ありがとう!

あと、こんなHPも発見しちゃったのでアップ。

週刊ソラミミスト

なんと、知る人ぞ知る、タモリが出演している深夜の番組「タモリ倶楽部」の「空耳アワー」の動画が見れるのである。洋楽好きは一見の価値あり、だと思います。
  1. 2006/01/28(土) 03:43:49|
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~雑文~この、空いたお皿をお下げしてよろしかったですか?

この2週間、テンぱった毎日を送っていて更新が滞ってました。こまめに訪問してくださった方にお詫び申し上げます。今週末は大きな予定もなく、久々に日記が書けそうです。

さて、本日はサークルの仲間の誕生日祝いにイタリア料理食べ放題のお店に行った。食べ放題ということは、当然愛すべきクラスメートであるおとうさんも一緒だ。まぁ、それは置いておいて。

7人で行ったので、空いたお皿がテーブルの上に次々と重なっていく。食べ放題の店だけあって、店員さんがこまめにやってきて、それらの使ったお皿を下げてくれるので助かる。

さて、店員さんが「空いたお皿をお下げしてよろしかったでしょうか」と言ってテーブルを片付けて行った。それに対して、おとうさんが
「普通に、空いたお皿をお下げしていいですか?って聞けばいいのに、なんで過去形で聞くんだろう?」と疑問を投げかけてきた。

ん~、多分それは、店員さんが心の中の客とこんな会話をしていたからじゃないかな。

「お皿、下げた方がいいと思うんですけど…、やっぱりまだ下げちゃご迷惑ですよね」「そうですよね…、今回は下げるのはやめときます」
「えっ、もしかして、実は下げてもよかったんですか?」
「ありがとうございます、お皿を下げさせていただきます」

ってことで、お皿を下げるべきかどうか気を遣ったことと、お客さんは「しょーがないなぁ、お皿を下げさせてやるよ」って言えるほど偉いんですよ、ってことを表現するために過去形で聞いてきたんだ、という話をしたら、その場にいたサークル仲間のK君に、
「そんな(ひねくれた)ことを考えるのは君だけだよ」
と言われてしまった。

うん、確かにそうかも。ほめてくれてありがとう(←ひねくれ者)。

まぁでもお客さんは偉いってことを表現したかったかどうかは別にしても、お客さんのことを気遣っているんですよ、っていうニュアンスは、この過去形の表現に含まれているんじゃないかな。

だって、「下げてよかったですか?」って聞くってことは、少なくとも過去に1回以上は「下げよう」とか、「下げたほうがいいんじゃないか」って考えたことを表していると思うから。

で、過去に店員が「下げよう」って思ったとして、それが本当に客側の都合を考えてのことだったのか、それとも店員側の都合で皿を下げなかったのかについて、事実を把握することは客側にとってあまり意味があることではないと思う。むしろ、客が「店員が、皿が積んであることに気づいていて、それを下げなかったこと」をどう解釈するかということの方が、お互いの関係性を保つ上で重要である気がする。そして、「皿を下げなかったこと」についてコメントするのが店員さんかお客さんかで、客側の印象って変わってくるんじゃないかと思う。

ここから話を拡張させて、お皿を下げるということだけでなく、何らかのミスをするなどで相手に不快な思いをさせたときに、自分からそのミスに気づいたことを相手に伝え、解決策を申し出ることは、相手に
「私はあなたのことを気にかけていますよ、迷惑をかけたくはないんですよ」ということを言外に伝えることにつながると思う。

逆に、相手からミスを指摘されて、解決策を求められたときに、
「~をしてよかったんですか」って言うと、
「おいおい、気づいてたのに行動しなかったのかよ。今更言い訳するんじゃないよ」ってな風に受け取られてしまう可能性もある。

まぁ、テーブルの上に皿が積み重なってても知らん振りして、こちらが呼んで初めてやってきた店員さんが、「お皿を下げてもよろしかったんですか?」なんて言ったら、僕だったら「おいおい、気づいてたのにお皿を下げなかったのかよ、しかも、こっちが下げて欲しくなさそうだったから下げなかったって言いたいのか?」って思うかも知れない(まぁ、お皿を下げないくらいでそこまでは思わないだろうけどね)。

まぁ、この考え方は飛躍しすぎかもしれないけど。
でも、「ミスをしたときに、相手が怒って関係が一層悪化することを避ける(=リスクを回避する)ためには、実は先手を打って謝ったほうがいい」という話はうちの大学の教授から講義を受けたことがあるし、僕も実体験からそう思う。もちろん、ミスを隠しおおせたら先手を打って謝る必要はないのかも知れないが、重大なミスほど、いつかはバレたりするんだよね、多分。それは、ネットの情報網が発達して情報が入手しやすくなったこともあるし、罪の意識から逃れるために、相手が「ミスに気づいてる」徴候に対して無意識に鈍くなって、対策が遅れてしまうからかもしれない(by内田樹「寝ながら学べる構造主義」)し。

ってなことで、「お皿を下げてもよろしかったですか」という先手を打つ一言は、お客さんとの良好な関係を築くことに有益である、という結論に達するわけである(ほんとか?)。

いや~、強引な話の持ってき方だなぁ。

ちなみに、「同じ言葉でも、文脈によって相手の受け取り方は異なってくる」って言葉で今までの話をくくることは簡単だけど、これは単なる言葉の使いかたの問題ではない。
メッセージの発信者の、「あなたのことを気にかけてる」という行動が裏にあって、そのことを表現するために言葉があるのであって、さらに、メッセージの受信者は言葉だけではなく(もちろん言葉にも注意を向けるが)その言葉を生み出した大もとの行動からにじみ出るメッセージをも受け取ってしまうのだ、というのがベイトソンの教えであり、「親業」の創始者であるトマス・ゴードンの考えでもある。

だから、全然相手のテーブルを見ないで、客に呼ばれたときに「お皿を下げてもよかったですか?いや、気にしてたんですけど、下げないほうがよかったかと思いまして」なんていいつくろっても、客は心のどこかで(無意識的にかもしれないけど)ウソくささを感じてしまうように思うのである。
つまり、「行動の伴わない言葉には人はついてこない」ってことかな。

まぁ、しばらく文章を書いてなかったので話が飛躍しまくりで読みづらい文章だったと思いますが、ご容赦のほどを。



  1. 2006/01/28(土) 03:24:45|
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質問を強く促す行為によってなされた生徒からの質問は果たして学生の自主性を引き出したと言えるのか

今週から整形外科の授業が始まった。骨と筋肉の構造と機能と疾患について勉強するのだが、比較的身近な病気を扱うせいだろうか、なかなかに面白い。捻挫とか肉離れはスポーツをしてる人にとってはよく見る傷害だろうし、スポーツをしてない人でも、腰痛やヘルニアなどに罹ったり、罹った人が周囲にいたりするだろうからね。
そんな馴染みのある疾患や傷害を扱う科であり、かつスポーツドクターとして活躍する医者もいることからも、人気のある診療科であることもうなずける。

ところで、本日は骨の腫瘍(癌など)についての講義があったのだが、ちょっと微妙な授業だった。
どんな風に微妙だったかというと、先生が独特な方で、とにかく生徒に質問をさせたり、逆に生徒に質問をして答えさせようとする(それだけが、先生が独特だ、という理由ではないんだけど)。
講義の合間に何度も「質問のある人!」と生徒に問いかけては、誰も質問をしないのを見て、
「君たちが質問をしても、失うものは何もないんだよ」
「まだ3年生なのに、質問をしないようになってしまうのは早すぎる」
と質問を促す。
それでも誰も質問したり、先生の問いかけに対して挙手しないので、途中からは、
「君ら、これについて知らないの?ふ~ん、君ら、3年生なんだよねぇ…、知らないんだ~」ってな感じで生徒の自尊心をかき立てて質問などを促すが生徒が乗ってこず、ちょっといじけた感をかもしながら授業を終えてしまった。

ちなみに授業のあと、クラスメートとその授業について話をしたのだが…。
クラスメート「さっきの授業、どうだった?」
ばんじょー「うーん、コメントに困る授業だったよ。君は?」
クラスメート「うざかった」

一撃ですか。うーむ、剛毅なコメントですな。

まぁ、先生に協力しない生徒も悪いのかもしれないけど、「赤色骨髄、知ってる人、挙手」って言われても知らないし、「じゃあ黒色骨髄、知ってる人、挙手」って言われてもやっぱり習ってないから知らないし、それで「君ら、もっと手を挙げようよ」って言われても、知らないからには手を挙げようがない(知ってて挙げない人もいたんだろうけどね)。

「みんな質問しないのは、僕の問いかけの仕方も悪いのかもねぇ」なんておっしゃっていたのは、はたから見て気の毒だったと思うし、100人の生徒の前で話すプレッシャーを考えると、生徒からのリアクションを求める気持ちも分からなくない。なので、こんな文書を書くのも傷口に塩を塗りこむようで申し訳ないのだが、自分も万が一将来同じ立場に立ったときに、どのような行動を取るべきかの指針を立てるためにも、一応の分析を書こうかと思う。

先生が学生に質問を促したり、学生に"主体的に"授業に参加することを促すというのは、先生と学生の間に双方向性のコミュニケーションをとる関係を築きたいということなんだと思う。

が、学生には学生同士の関係性というのがあって、生徒の間には「授業の進行を妨げて、終了時間を引き延ばすような質問は避けてほしい」という暗黙の空気が流れている(と思う)。同様に、「皆が知っているようなありきたりの質問で時間を取らないで欲しい」という雰囲気もあり、それゆえに「皆が知ってるかも知れないから、大勢の前では質問をしたくない」と思っている人も生徒の中にはいるのではないかと思う。ほかの学校はどうか知らないが、少なくとも僕の所属するクラスには、「みんな、僕がすっごくいい質問をするから、ちゃんと聞いてくれ!」って生徒はいないと思われる。

基本的にそのような暗黙の了解の中では、質問が自主的に出るのは難しかろう。でも、だからと言って先生が生徒に質問を強く促すのは、生徒の自主性を引き出すことにはならないだろう。

というのも、ベイトソン的に解釈すると、「質問しろ」という指示や強要は、すでにある種の主従関係の文脈で語られている。言い換えると、権力をもって何かを強要する側と、権力に従う側、という文脈である。でも、双方向性のコミュニケーションというのは、果たして主従的な関係から生まれるものなのだろうか?

僕が会社勤めをしていたとき、部長クラスの役職の方と会話を続けるのが苦痛だった記憶がある。というのも、こちらがどのようなことを話すと相手が不快に思うか分からないからだ。いや、正確には、相手が不快に思ったときにどのように権力を行使されるかが分からないから、苦痛だったのだ。別にたかだか日常会話で、って思われるかもしれないけど、案外上役会議なんかで、「あいつはこの前話をしたけど、どうも空気が読めないやつだったよ、日常会話でこそ人柄が出るからねぇ。だから昇進はちょっと見送りかな」なんて言われてたりするかも知れない。

もしそんな話が実際にあったとして、こんなことで人の人生が左右されるなんて不条理だと思うんだけど、世の中ってそんな不条理が結構ごろごろ転がってると思うし(転がってなかったらごめんなさい)、そんな不条理を引き起こすのが権力者の権力者たるゆえんだと思う。ちなみに内田樹先生のラカン解釈によると、そのような、本人にとっては想像もつかないような不条理や災厄をなげかけてくるものが、ラカンの言う「父の名において」における父であり、その不条理によって自信の限界を知ることを、「去勢」と呼んだ(by斎藤環)。この「去勢」という行為によって、人間は周囲の環境に適用しようと努力し、社会的に成長するらしい。

自分の限界がどこにあるかを知るのは大切なことかも知れないけど、だからと言って自分から虎口に飛び込みたくもないよねぇ。ただでさえ人生いろんなトラブルが待ち構えてるっていうのに。

ごめんなさい、話がそれちゃったけど、双方向性のコミュニケーションというのは、ある程度対等の関係があってこそスムーズに進むのではないのかと思う。だって自分の言ったことに対して何らかの罰が下される可能性があるなら(相手が罰を下せるような権力を持っているなら)、大半の人が慎重にならざるを得ないと思うから。では、権力者の文脈で語られる「双方向のコミュニケーションをしようよ」という提案は、羊の皮をかぶった狼の言葉なのか、はたまた狼の皮をかぶった羊の言葉なのか、どちらなのだろうか。そりゃあ沈黙(ベイトソンの用語ではダブルバインド)も無理はないだろう。

ちなみに先生は、アメリカに留学していたことを何度か口にされていたから、アメリカ式の、先生と生徒の間の活発なやりとり(実際に見たことはないけど、いろいろな噂を聞くと、遠慮なく質問が飛び交うんだろう)を理想としているようだ。でも、僕らが今いるのは日本だし、僕らは日本人の関係性の中で生きている。日本の学校の授業って、たいていが先生の一人語りなんじゃないかと思うんだけど、そのような社会で身に着けてきた作法が「授業中は先生のお話に静かに耳を傾ける」「場の空気がつかめるまでは、慎重に、おとなしくしている」という方法であり、少なくとも僕はそれが汎用性のある方法だと思っている。まぁ、僕の場合は今回の授業でもその方法にのっとったまでで、先生が生徒と授業という枠組みのなかで双方向性のコミュニケーション関係を築きたい場合は、生徒の中に責任を見出すよりも、日本文化(っていうのかな、こういうのを)の特徴を分析するところから始めるべきなのかもしれない。

ちなみに、アメリカって、文化的にどんな場所でも主張する、ってイメージがあるかもしれないけど、会議などで話をするときには、アメリカ人も場の雰囲気を考えて話をするそうである。べらべら喋るのは下っ端で、立場が上の人は様子を見てから話をする、というようなことが「悪魔の味方」(岩井健太郎著)に書かれていたので、一応参考までに。

では、日本の授業において、先生が生徒と自然な双方向のコミュニケーションを交わせる(しかも授業が荒れずに)ようにするにはどうすればいいのだろうか?って問題に行き着くと思うんだけど、正直僕には分からない。ごめんなさい。

でも、素人意見をあえて述べさせてもらうならば、授業や先生・生徒の枠を取っ払っても、生徒がこの人とコミュニケーションを取りたいと思うような人柄や人間性をもっていることが、先生が授業中でも双方向のコミュニケーションを取るための条件なのではないだろうか、と思う。

まぁ、長々と書いてしまったけど、生徒の質問がなかったのは、単に授業のコマ数が多かったから生徒が中だるみしたんじゃないか、っていうのが一番可能性の高い話だったりする。あちゃ~。
  1. 2006/01/17(火) 22:20:55|
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