続・晴耕雨読

東北在住のへっぽこ医師ばんじょーの日々思っていることをつづったブログです。週2回くらいの更新を目指しています。スパムコメント対策のため、 コメント時に画像認証をお願いしております。お手数ですがご了承ください。

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空気、空気、空気

冬休みがもう少しで終わってしまうことを想像するだけで心拍数が上がるばんじょーです、こんばんは。妄想の中に逃げ込めば、多少は心拍数が下がることを発見し、少し救われた気分になっています(←でもなんの解決にもなってない)。

さて、ウチダ先生の1/5のブログ『恐怖のシンクロニシティ』に、空気を読むことについて書かれている。その中で、ウチダ先生が巡回されているブログ数カ所でも、空気を読むことについて言及していた、とおっしゃっているが、年末の読売か日経新聞のコラムでもKYの話題を扱っていたし(まさかブログに書くことになるとは思わず、捨ててしまってました。無念…)、最近はKY論がホットになってきているのかも知れない。ちなみに僕も12/2212/251/4のブログで空気について書いています。諸先生方には及ばずとも、僕までKYの話題に触れてしまったのは、もしかすると、「KYについて議論しよう」という雰囲気が世間で生まれているのかも知れない。

まぁ、年末からのクリスマスや忘年会ラッシュ、そして新年会と、空気を読むことについて考えさせられる機会が多い時期だからなのかも知れませんが。

ウチダ先生、およびウチダ先生がブログ内で取り上げられているKY論を読んで思ったのは、場の空気というのは、その場のルールみたいなものであるが、ルールとして言葉にするのは難しいものだということである。う~む、含蓄深い。だから空気を読んでない人に場の空気について説明するのは難しいし、そもそも自分の空気に対する読みに自信を持つのも難しいし。KYというのは、空気が読めない人間を排除するような響きを持つように感じる、とウチダ先生のブログで言及されている(正確にはウチダ先生のブログ内での『Sho's bar』の引用です。ややこしくてすみません)が、読めない空気だからこそ、読めない人間を排除するという具体的行為を行うことで、そこに空気があることを実感できるのかも知れないな、と思ったりする。

別にKYを場から排除しよう、って考えを持っている訳ではないですので、誤解しないでくださいね。KYを逆に場に取り込む空気をいかにして生成することが出来るか、というのが最近の関心ごとです。とりあえずの対応策として、僕は空気が読めない場では、僕は壁と一体化して微笑むようにしています。アルカイックスマイル。

ところで先日、海外では怪しげな漢字をタトゥーに入れるのが流行ってるね、という話をした。その時僕が思い出したのは、「二角形」というロゴがでかでかとプリントされたTシャツであった。見たのはもうかなり昔だけど、未だに記憶に残っています。二角形…。

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  1. 2008/01/05(土) 21:58:10|
  2. 心理学・現代思想
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不機嫌の効用

ばんじょーです、こんばんは。今回は気になった芸能ネタから。

昨年末のYahoo! Japanに、桜塚やっくんが喉のポリープの手術のために年末の仕事をほとんどキャンセルしたという記事(→2007年12月31日オリコン)が載っていた。芸人として落ち目だから年末の仕事がなくなった、ってわけじゃないと知ってほっとする(実際ネットでやっくん落ち目説が流れていた)。僕は、観衆一体型で場を盛り上げるっていう芸風が好きなんですよね。喉のポリープっていうと声帯ポリープなんだろうか。元気な姿をまた見せてくれることを祈っています。

年末の記事といえばもう一つ、紅白歌合戦のリハーサルで、北島三郎の「帰ろかな」に合わせて赤・白組のほとんどの歌手が声援を送る際に、リア・ディゾンが涙ぐみ、腕を組んで「エリカ様ポーズ」をし出したらしい。他のブログを読むと、日本語が不自由なのと、その日の別の曲の振り付けと歌詞を覚え切れてなかったのも涙の原因だったようだ(→2007年12月31日デイリースポーツ)。

リア・ディゾンの不機嫌な態度に場が一瞬凍り付いたらしい。そういえば、エリカ様が「別に…」と不機嫌をあらわにしたときも、和田アキコがすごい怒ってたなぁ。

公衆の面前で不機嫌になる事に関して、「大人げない」など負のイメージはあっても、社会的に高評価を得るという話を、僕は寡聞にも聞かない。でも、公衆の面前でも、怒りたい人は世の中にたくさんいると思う(でなければ、世の中にこんなにグチが蔓延しているわけがない)。じゃあ、なんで人々は怒りを表出せずに我慢しているのだろう?怒りが負の産物で、そんなものを自分が持っていることを他人に知られたくないから?

まず、怒りというのは、人間にとって決して負の機能ではなく、非常に有用な機能を持つ。
怒りには、「私たちの自己の統合そのものを保とうとする機能」がある(『怒りのダンス』p2)。

こんな状況を考えてみよう。あなたは、ある集団の中で、自分の役割もなく、話の輪についていけず、ただ隅っこにいてよく分からない話に相づちを打って愛想笑いをしている。そこで、その場の仕切り役の人が、さも”お前は場を盛り上げたりとか役に立つことをしてないから”みたいな感じで何か作業をやるようにあなたに言って来た場合、あなたはどう思うだろうか?”やった、仕事が出来た。この場から離れられる”と喜ぶだろうか。それとも、”ちょっと待て、私はそれなりに苦痛を味わってるのに、なんでさらに役立たずのレッテルを貼ろうとするのか”と怒るだろうか。

仕切り役の人の態度にもよるけど、上記のシチュエーションだったら僕だったら怒ると思う。というか怒らないといけない。もちろん、怒りを表面に出さないとしても。
ここで怒るのは自然な行為で、むしろ怒らないと「自分は無口で、自分のやりたいことも自分で決められず他人の指図で動く人間」と周囲から型にはめられてしまう。自分が自分でなくなる状態、これを自己拡散化現象(by『怒りのダンス』→多分そういう意味でこの用語を用いているはず)と呼ぶが、自分を保つためにも怒るという行為は重要な役割を果たす。

でも、重要な機能なのになんで表出してはいけないのかっていうと、怒りが他人にうつるんですね。これは、心理学者ワロンなら感情の伝播と、心理学者チャルディーニなら怒りの態度の交換と返報、と説明するだろう。世間には、親子の間で、母親と息子の「あんた、勉強しなさいよ」「分かったよ」というやりとりが、そのうちどっちかが怒り始めると「勉強しなさいって言ってるのが何でわかんないの!」「うっせぇ、くそババァ!」というやりとりになって、結局どっちも譲らないっていう話がよくあると思うんだけど(何度もそういうパターンの話を聞いたことがある)、それも怒りが他人に移る例だと思う(まぁ、理由はそれだけではないかも知れないけど)。

問題は、その場にいる人たちがみんな怒り出すと、自分の我を守り他人の意見をなるべく受け容れまいとするため、集団での行動をしにくくなることである。すなわち集団のパフォーマンスの効率が著しく低下するんですね。

システム論+構造主義的に考えれば、自分の所属する集団のパフォーマンスレベルの低下は自分へのリターンの低下につながる。だから、意識的もしくは無意識的に、怒りを表出することについての算盤をはじいた結果、たいていの人は集団内では怒りを抑えて、後で親しい人に愚痴る、というわけなのである(と思う)。
平たく言えば、だから場の空気を乱さないようにするっていう話なんだね。

しかし、人間も動物である。怒りを感じながら、表出させず、眉一つ動かさず我慢仕切れるなんて、そうそう出来ないと思う。そういうときに人間がどうするかっていうと、怒ってないことにするんですね。自分の感情に蓋をする。そうすれば表に出さずに済む。
でも、そういう抑圧された感情は、無意識下に潜行する。そして、自分でも気づかぬうちに、むかつく上司からの命令に対してそれと気づかぬ程度にボイコットするとか、何かと理由をつけて仕事のレベルを下げたり後回しにするとか、上司に出すお茶にちょっと指を入れちゃったけどまぁいいや、ということにつながりうるのである。


今日は祖母の家に行き、二世帯住宅で上に住んでいる叔母とも会ってくる。叔母は犬を飼ってるんだけど、犬同士の交配の仕方では、股関節脱臼しやすい犬や病気になりやすい犬が生まれやすいという話を教えてもらう。ほほう、近親相姦っていうのは、そういう形で子孫に影響を残すのね。そういう考えを人間に応用すると、優生学なんて思想が出来るんだろうな~。

で、その叔母の飼い犬にさんざんベロベロなめられて、肩に前足を置かれる。そのポーズはどうやら立場が下のものに取るポーズらしく、僕は家の中では下位に属するらしい(犬的視点として)。なんか不当な扱いを受けている気がするが、その犬がかわいいから許す。

帰りに三島由紀夫の『宴の後』を読みながら電車に揺られて帰る。ほんと、三島由紀夫は天才だわ。感情の動きにまで複線を張ってるのがすごい。犬になめられた首筋をぼりぼりかきながら、家路につくのであった。

テーマ:怒りの効用 - ジャンル:日記

  1. 2008/01/04(金) 01:59:24|
  2. 心理学・現代思想
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ブロガーのエクリチュール

最近接待ビリヤードの腕前がめきめき上達しているばんじょーです、こんばんは。接待ビリヤードとは、ここ一番ってときに、手玉(白い玉)をポケットにホールインワンしちゃったりして、相手にみすみすチャンスを与えてしまうようなプレイのことを言います(造語ですのであしからず)。社会に出てから上司にビリヤードに誘われることがあっても、この腕前なら上司の顔を立てることが出来るのではないかと思います。まぁ、いろいろとつっこみどころはありますがそれはおいといて…。


さて、先日『零度のエクリチュール(ロラン・バルト著)』『貨幣論(岩井克人著)』を読み終える。ロラン・バルトは構造主義の旗手の一人(内田樹先生曰く、構造主義4銃士はレヴィ=ストロース、ロラン・バルト、ミシェル・フーコー、ジャック・ラカンなんだそうです)である。結構難解な文章で、内田先生の『現代思想のパフォーマンス』のガイドがなければ、あやうく現代思想の迷宮で迷子になるところでした。

僕は虫食い状にしか理解できてないんだけど、『零度のエクリチュール』で言いたいことは、社会における自分の立ち位置によって、言葉の使い方や組み合わせ(語と語の関係つまり構造)が変わってくる、ってことなんだと思う。

例えば、僕の周りには自分の社会的立ち位置(医学生であること)を隠してブログを書いている知人・友人・先輩が何人かいて、彼らのブログで医学知識に関する言及をなるべく避けようとしている、という印象を受けるんだけど、それも「医学生でない」という立ち位置が、使用できる語彙や言葉の組み合わせを決めるという例なんじゃないかと思う。医学用語の使い方一つで医療従事者かどうかって勘のいい人だと分かりそうだから、医学に関する単語自体も軽々と使えないんじゃないかな。

先日「最上の命医」という漫画について書いたと思うけど、その漫画についてネットの掲示板の書込みで面白いと思ったのが、「面白い連載が始まった」とか「早々に失速しそうだ」とかストーリーについての言及が多勢を占めるなか、「自分の腕に出来た裂傷を、別の腕で埋没縫合して、完璧な処置であった」という漫画の1シーンについて、一部の人間が「それは不可能なんじゃないか」って議論を行っていたことである。
僕もそのシーンには違和感を感じていた。というのも、僕自身はまだ術野で縫合させてもらったことはないんだけど、それでも手術を間近で見ていると、筋肉や軟部組織は非常に弾力に富んでいてしかも血液や漿液ですべりやすいことは見てとれる。それを片手で完璧に縫合するというのは、漫画にしてもちょっと現実味がなさすぎるんじゃないの、と思った次第で。多分僕と同じような感覚の人間が掲示板で議論をしていたんだと思うけど、そういう方々を見ると、「ああ、お仲間なんだな」と思ってしまう。
その議論って、医療関係者でない方から見れば、「なに些細なことで議論してるんだよ」って話なんじゃないかと思うんだけど、それでも、そのちょっとした言葉の使い方や言葉に対するこだわり方で、その人が何者であるか想像がついてしまう、というのもエクリチュールの解釈の一例だと思います。

ちなみに、エクリチュールとは、『現代思想のパフォーマンス』では「ある社会的集団が集団内で承認した、正しい言葉の使い方」と説明されている。単なる言葉遣いではなく、その人がどういう集団に属しているかを反映した言葉遣い、ってことですね。

で、僕は「医学生」という立ち位置でブログを書いているけど、別に自分が「医学生」と名乗らなくても、見る人が見れば、「軟部組織」「漿液」「縫合」とかいった用語の使い方だけで、医療関係者であることが分かるのではないかと思う。でも、僕はかなり自分の立ち位置をばらしてるので、逆にブログの内容にしばりが出来てしまう。例えば、「死ね」とか「○○が病気になってざまみろ」とか医療倫理にもとる言動は出来ないし(別にそういうことを書きたいわけではないけど)、当然エロも書けません(こっちはちょっと書きたい)。
なので、自分の立ち位置を隠してエロを書いてる方を見ると、ちょっとうらやましく思ったりする(でも、別に普段の彼がエロでないかといえばそうではな…、いや、失言でした)。

社会におけるその人の立ち位置は、言葉の使い方・組み合わせに影響を受ける。逆に他人の言葉遣いからその人が社会や集団でどういう位置づけにあるのかが推測できる、っていうのが『零度のエクリチュール』を読んで思ったことなんだけど、この考え方って、実践で使える知識なんじゃないかと思うんですよ。

というのも、相手の言葉遣いから、相手の社会的立ち位置が分ったとすると、その相手が「社会的にどのような台詞を言ってはいけないかor言いたくないか」、すなわちタブーなコミュニケーションが何であるかも推測できるんじゃないかしら、と。

例えば、医学生であることを隠してブログを書いている友人に対して、僕が医学に関する質問の書込みをするのはある意味タブーに近くて、というのも、それを答えさせてしまうと友人に自ら「医学生である」ことをばらさせてしまうし、かといって「分りません」って答えさせると恥をかかせることになってしまう。こういう二重拘束の質問をされると、メッセージの受信者は困ると思うけど、それを避けるために相手の言葉から社会的な立ち位置を探り当てていくという技法は役に立つかもしれないと思う。これも空気を読むというカテゴリーに入るのかしら。


大学生活があと1年ちょっと。卒業までにフーコーとラカンも1冊づつは読んでおきたいけど、最難解と呼ばれる両者を読むことが出来るかどうか…。


PS『貨幣論』については、気が向いたらレビューするかも知れません。あっ、でもいい本ですよ。難しいけど。
  1. 2007/12/25(火) 04:10:24|
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フロイトと散逸構造について(備忘録)

今回の話題は単なる備忘録です。あくまで個人的な覚え書きであることをお断りしておきます。



フロイトは『快楽彼岸の原則(フロイト著作集 第6巻 自我論・不安本能論)』で、「反復強迫」について述べている。これは犯罪者が同じような犯行を何度も繰り返してしまうように、だめんずうぉ~か~が同じようなダメ男に何回もひっかかってしまうように、特定の行動を病的に繰り返してしまうことを指している(と思われる)。

病的であるにも関わらずなんで反復するかっていうと、繰り返すことでその事象をコントロールして自分の支配下に置けるという点に利得を見出してるからである。展開が分かってて観ても目新しいことはないであろうにも関わらず、水戸黄門を観続けてしまう感覚と同じなのかもしれない(っていうとファンに申し訳ないけど)。そこからフロイトは、反復強迫とは、見方を変えれば以前の状態を回復することと同じなんじゃないか(同一性の再発見)という発想に至り、そういう物事の繰り返しこそが人間の快楽を生み出すんじゃないか、と指摘したのである。

フロイトはそこからさらに、人間は原初の状態への復帰、つまり無生物状態=死に戻ることを本能的に望んでいるんじゃないか、という考えを展開している。これが「死の本能」と呼ばれる考えなんだけど、「有機体は、それぞれの流儀にしたがって死ぬことを望み…(同書p174)」というくだりを見るに、死それ自体への回帰より、死に方をコントロールすることに快楽を覚えるとも読み取れるところをみると、フロイトも「死の本能」という発想を公表するのに躊躇を覚えたのかな、と思ったりもする。

さて、これらのフロイトの指摘は興味深い。というのも、同一物への回帰っていう発想は、あるインプットに対して特定のアウトプットが安定して返ってくる環境を構築することに通じるという点で、システム論に通じると思われるからである。自己組織化した有機体(システム)は安定したシステムを作り、変化に対して抵抗性を示す(J・ヘイリーは『家族療法の秘訣』p225で、安定した人間関係において、こちらが変化を促すコミュニケーションを行うと、相手はそれを減少させるようにレスポンスするという指摘を行っているが、このことも人間関係システムの安定性を示唆している。ちなみに、家族療法とコミュニケーション理論は、システム論の影響を強く受けています。あまり知られていないかもしれませんが…)。

フロイトの指摘はシステム論に通じるようで興味深いが、生物の安定性への希求と「死の本能」を同一の思考でとらえるのは難しいかもしれない。というのも、安定したシステムというのは動的平衡システム、つまり散逸構造であり、巨視的視点では変化していないが、境界上で微小変化が絶えず生じているという構造である。一方、フロイト的な「死」はあくまで静的平衡システムだと思われる。その2点を分かつのは、外部エントロピーを生体内に取り入れて自分の境界内のエントロピーを減少させる機構の有無だと思うんだけど、ここでは詳しくは論じない。

ということで、フロイトは死というものを究極の安定として捉えているふしがあるが、生物の安定というものと死は異なる種類の安定なんじゃないか、というのが今回の備忘録の趣旨である。


ちなみに、「臨床心理学」という雑誌で、あまりに不幸な人生を歩みすぎてしまったため、自分の思いどおりにできることが自分の命を絶つことだけになってしまった(と思われる)患者さんの話が書いてあった。フロイトの指摘を思い起こさせる記事であった。
自殺願望のある患者さんは、もしかすると、自分の思いどおりにできることが自分の命を絶つことだけだという思考に陥ってしまっているのかも知れないと思ったりする。

先日テレビで、富士の樹海前で自殺志望者を引き止めるという特集を行っていたが、テレビ局のリポーターが「自殺しちゃダメですよ、飲もうとした薬は僕が預かります、絶対これから自殺しないって僕に誓ってください」なんて、見ず知らずの自殺志望者に命令口調で説教していたのを観て、ちょっとこれは、って思ってしまった。上から目線で話しかけてること自体に悪印象を持ったし、何より、本人が「死ぬこと」しか自分の思いどおりに出来ることがないと思っているとしたら、それすらも否定された人間はどうなってしまうんだろうと思うのである。まぁ、番組では結果オーライだったみたいだから、よかったのかも知れないけど。
もちろん、自殺しようとしている人間は止めるべきだと思うけど、その止め方は非常に気を遣うポイントなんじゃないかな、と思ったのである。

  1. 2007/10/08(月) 18:32:45|
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マンガを文化人類学的に考察する~『闘将!!拉麺男』とギリシャ神話~その3

さて、今までの話を『闘将!!拉麺男』の分析に使ってみたいと思う。ザーサイは、幼少時代に拉麺男と出会い、彼の拳法の腕前に惚れて弟子入りを志願する。その時拉麺男が、自分の師匠に共に弟子入りしようと誘うも、「大人は信用できないからお前から拳法を習いたい」と言う。でも拉麺男がザーサイに拳法をこっそり教えてるのが師匠にばれ、これ以上未熟なお前が拳法を教えるなら破門にすると言われた拉麺男は、ザーサイに拳法を教えられないと告げる。ザーサイは、大人の仲間である拉麺男に失望し、彼の元を去り(その時に背中の葉っぱが貼り付いた→蛮暴狼の誕生)、自ら修行して筋肉拳蛮暴狼となる。これらのことから、幼少時代は大人の助けを拒み、子どもだけのコミュニティにいることを望んでいたと思われる。

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一方、大人となった蛮暴狼は、地獄の殺人者と呼ばれるようになった。そして、自分が近しく感じていた子どもまでも、成り行きではあるが殺めてしまう。

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そう、彼の生き方は、幼少時代は同朋同士での結びつきが強すぎるコミュニティを欲していて、大人になったら同朋を殺めるほどに他者との結びつきが弱いというように、人間が生きていくための限界点を越えてしまった人生を歩んでいるように思えるのだ。だから彼の死は必然なんだと思うのである。

というか、彼はそもそも大人になりきれてなかったんじゃないかと思う。彼は幼少時代は欲しいものは大人(他人)から奪っていた。そして大人になっても、人の命を平気で奪っている(と思われる)。何かをもらったら何かをお返しするというのが世の中の原則だと思うんだけど、その原則に適応できないまま、奪うばかりで与えることが出来ないまま大きくなってしまった人間を、果たして大人とよんでいいのだろうか。

彼は精神的に大人(他者)の助けを拒んだ。そんな彼が肉体的にも外部からの侵入を拒むような形で自らを強くしていったというのは、ある意味彼にとって必然なのかもしれない。それでも人である以上、精神的にも肉体的にも他者から何らかの影響を受けるのは避けられない。そして、蛮暴狼が唯一精神的に受け入れた拉麺男だからこそ、その肉体を貫通することが出来たのかもしれないな、と思うのである。

とまぁ、文化人類学的に『闘将!!拉麺男』を分析してみました。こういう試みをする物好きな人ってあんまりいないんじゃないかなぁ。なのでこの分析が適切かどうかの検証の機会はほぼ訪れないものと思うけど、間違ってたらごめん、ってことで。でも、僕は『闘将!!拉麺男』の中でもこの話が一番と言っていいくらい好きなんだけど、それというのも、このストーリーから何らかの奥深さを感じるからかも知れませんね。

PS 脳内メーカー
遊べるソフトです。
ちなみに脳内メーカー正面もあるよ。

PS キン肉メェ~ン
キン肉マン好きに送るパロディページです。
  1. 2007/08/12(日) 03:29:12|
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