続・晴耕雨読

秋田在住の医学生ばんじょーの日々思っていることをつづったブログです。週2回くらいの更新を目指しています。スパムコメント対策のため、 コメント時に画像認証をお願いしております。お手数ですがご了承ください。

良い病院選び?

明日から学校が始まるので若干ブルーなばんじょーです、こんばんは。
社会人のみなさまに春休みはないと思うので、贅沢な悩みだとは思うのですが。

週刊新潮4月10日号より。
良い病院選びのチェックポイントは、以下の7つなんだそうです。
1)病院の受付に医者や看護師がいるかどうか
2)放射線科がわかりやすい場所にあるかどうか
3)駐車場のサービスはどうなっているか
4)トイレが洋式であるかどうか
5)トイレなどの手洗いが温水かどうか
6)公衆電話に仕切りがあるかどうか
7)産婦人科や小児科が独立しているかどうか

多分、医療従事者か、それ以外の方で受け止め方がかなり違ってくると思うんだけど…。
僕は、設備面で病院を評価するのは少々乱暴かと思う。もしこれらのチェックポイントを評価するとすれば、事前情報を持ってなくても、その病院で治療を受けていいかの目安になりうる、ってところだろうか。医療従事者でないと、自分が受ける医療の良し悪しってなかなか分からないだろうからね。

もし患者さんがこういうポイントで病院選びをしてるとしたら、大学病院なんてかなりポイント低くなるよな…。ということは言ってはダメですね。冗談ってことにしておいてください。
  1. 2008/04/07(月) 01:34:42|
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ペンギンとワーキングプア(後編)

ばんじょーです、おはようございます。

先場所の大相撲では、朝青龍が優勝しましたね。おめでとうございます。さて、3/20の大相撲、朝青龍(横綱)と琴奨菊(関脇)の試合をテレビ観戦してたんだけど、あの琴奨菊の寄り切りは、相撲ファンの方には申し訳ないけど、正直八百長だと思いました。だって、琴奨菊はただ前に押し出してるだけだったし、朝青龍は反撃のチャンスが何度もありながらわざと見送ってるようにしか見えなかったもの(しかも、朝青龍は琴奨菊にたしか7連勝中だったはず)。しかも1敗の白鵬(横綱)が千代大海(大関)に引き落とされた後だっただけに、全勝の朝青龍がコケたのがなおさら意図的に見えたのである。

たまたま横綱の負けが重なっただけじゃないかって?でも、相撲八百長疑惑については、統計的に検証した資料があるのだ。
『ヤバい経済学(スティーヴン・D・レヴィット著)』曰く、7勝7敗の力士が8勝6敗もしくは9勝5敗の力士に勝つ勝率は、79.6%と73.4%だそうだ。相撲っていうのは、本場所で勝ち越せば(つまり8勝以上すれば)番付けが上がる仕組みになっている。7勝7敗の力士が勝負に気合を入れるのは当然のことだが、それにしても番付けがかかっているとはいえ、勝率5割の力士が突然勝率8割に上がるなんてありえるのか?ちなみに母集団は数百取り組み、検証する数としては十分だ。しかも、それらの力士同士が再戦した場合は、先場所で7勝7敗であった力士の勝率は4割くらいであるらしい。これは怪しい。

何年か前に、元力士2人が八百長および暴力団との関係について暴露しようとしたが、2人とも同じ病院で同じような呼吸器疾患で死んだんだそうだ。しかも記者会見の少し前に。その彼らが記者会見の前に告発した情報だと、八百長をしている力士と不正に手を貸さない力士の2者がいたとのこと。レヴィット博士がその情報と取り組みデータを照合したら、八百長をしている力士同士の対戦では7勝7敗の側がたいてい8割で勝っていて、公正な力士が相手だと、7勝7敗の力士の勝率は過去の対戦成績通りだったという(つまり、番付けがかかってるかどうかに左右されない)。これをどうとらえるかは読んで下さった方にお任せします。


前置きが長くなったけど、前回の続きを。

僕はかつて、住み込みで新聞配達をしたことがある。その頃は医学部の受験勉強を始めたときで、自力で生活費を稼ぎつつ、予備校に通いたいと思って新聞配達を始めたのだった。住み込みで仕事してたんだけど、そのときにあてがわれたアパートが、4畳半の部屋で、風呂はない、すきま風は吹き込むという代物だった。東京都内でその条件だと、家賃月3万が相場というところだろう。
さて、その頃の僕の生活は、およそこんな感じだった。朝3時に起きて集配所に行き、新聞にチラシを折り込み、原付の前カゴと後ろの荷台に山のように積み上げ出発する。300軒くらいに配達して集配所に帰ると朝6時くらいになる。その後集配所で作ってくれる朝食をいただいて、家に戻って2時間くらい仮眠。それから予備校に行ってから自習して、2時半くらいにまた集配所に行って、今度は夕刊の配達。150部くらいを配り終えて、集配所で翌日の朝刊に折り込むチラシを30分くらいかけて用意して、それから夕食を食べ、銭湯に行って身体を洗ってから帰宅、また勉強し、10時には就寝。実質勉強時間は1日6時間にも満たないだろうか。絶対的に時間が不足している。しかも、エレベーターがないマンションの5Fまで新聞持って駆け上がったりしてるから、節々が痛くて勉強に集中できない。

僕と同じ時期に仕事を始めたおじさんがいた。年は50くらいだろうか。
何でこの仕事を始めたんですか?僕は無粋にも聞いてしまった(あの頃は僕も若かった)。おじさんはしどろもどろになりながら、以前の仕事でリストラにあい、新聞配達をしている息子の勧めで自分もこの仕事を始めたんだと答えた。
そのおじさんは、朝食のとき、自分が青鼻を垂らしているのにも気付かずに美味しそうに味噌汁をすすっていた。僕はそれを見ながら「なんで鼻をかまないんだ、汚いなぁ」と思ったものだ。今思えば、自分はつくづく分かっていなかった。鼻が出てる感覚が分からなくなるというのが老いることなんだということ、老いた人間が新聞配達を始めることがどれだけ大変かということ、そして、貧困というものは人をそのような境遇に追い込むのだということを。

ある若い新聞配達員は、パチンコに入れ込んで翌月の給与まで店長から前借りしていた。ある中年の配達員は、集金を使いこんだという理由でクビになった。その人は何日も風呂に入っていないみたいで、顔は垢まみれで煤をかぶったようになっていて、酸っぱい匂いが2m先まで漂ってきていた。彼は新聞配達を何軒も渡り歩いて来たのだという。

ある日の朝礼で、店長が訓告した。
「新聞を配達するときはポストの奥まで入れろ。中途半端に入れると、ライバル新聞社が新聞を引っこ抜くんだ。それを何日か続けて、顧客がウチに不満を持ったときに、そのライバル社の販促員がその家に訪問するんだ。ウチの新聞を取りませんか、って」
新聞はインテリが作ってヤクザが配るとはよく言ったものだ。こんなエゲツない話は今までの勤め先で聞いたことがない。

同僚と自分たちの境遇について話す機会があった。彼は専門学校で建築士の勉強をしながら新聞配達をしていた。資格を取ったので、この月の終わりに新聞配達を辞め、実家に帰って仕事を継ぐのだと言っていた。
彼は言った。「新聞配達の仕事なんて、社会の底辺だよ。そう思わないか?」
僕はあいまいに笑った。今そう聞かれても、何と答えていいか分からない。精神科医だったら「あなたはそう思うんですね?」って聞き返すんだろうけど。
でも、「新聞配達は社会の底辺」という言葉は、もう一人の新聞配達員からも、別の新聞配達経験者からも聞いた。なんだってんだ、職に貴賎はないんじゃないのか、僕はそう思ったものだ。

1ヶ月たった頃、店長から、新聞の勧誘に回るように暗に言われた。販促は朝の新聞配達後に、洗剤やビール券を持って各家を回るヤツだ。マジメにやると時間ばかりとられる割りに身入りがよくないし、かと言って販促をやらずに配達所に残ってると店長にどやされる。だから、賢い配達員は販促をするふりして、その時間はパチンコに行っている。unbelievable!
僕は思った。おいおい、このままじゃ受験に失敗しちまうぜ。これじゃあ何のために仕事を辞めたのか分かりゃしない。

僕は新聞配達を辞めることにした。
それを伝えたとき、店長は激怒した。お前を雇うために、有望な別の就職希望者を断ったんだ。わざわざマンションまであてがってやったのに、表に出ろ、ぶんなぐってやる!
もう60にもなろうかという爺さんが外で僕と殴り合いだって?喧嘩は負ける気はしなかったけど(これでも格闘技経験者なので)、さすがにこれは僕の負けだ。勝っても負けても僕が悪者になってしまう。平謝りしてその場をしのぎ、そそくさと店を後にした。僕はあの世界ではきっとよそ者だったんだろう。中途半端に首をつっこんでしまったようで、あの店で真剣に働いている人たちに失礼なことをしたのだと、今でも申し訳なく思う。その後、親に頭を下げて借金をし、勉強を続け、今、ここにいる。

あの生活でも、安定した給料が入って、家があるだけまだマシだ。それでも、あの世界は、道が閉ざされていると思う。毎日仕事をしていても特別なスキルが身につく訳ではない。肉体労働だから身に堪える上に、代わりはいくらだっているのだから体調を壊しても休むわけにもいかない。給料が安定しているといっても決して高額でもない。その上、社会的な地位は決して高くないと感じる。日々背水の陣という状況は、そこで働いている人間にプレッシャーを与える。その重圧を癒すために、借金をして趣味にお金を使ったり、ギャンブルにのめり込む。そうして時間を浪費し、将来の教育への資金を目減りさせる。
この悪循環は、きっと上流階級にいる人間は分からないだろう。なんで浪費するのかなんて、上にいる人間にはきっと分からない。好きでもない仕事に日がな1日拘束されて、自分のスキルを磨くお金も時間もなく、そもそもどうすれば自分を向上できるかを教えてくれるような人脈もなく、挙句の果てに他人から下に見られるという屈辱。この心的重圧から一時でも逃れるために借金すること、ギャンブルにのめり込むことを、誰が責めることが出来ようか。

でも、貧困というのは、まさに人間をそういう悪循環に貶める。誰かが救いの手を伸ばさなければ、自力で抜け出すのはかなり難しいだろう。でも、為政者たちは2世議員だらけ、貧困が日本に存在することなんて想像も出来ないんじゃないだろうか。そういう人たちが、母子家庭への援助資金の財源縮小なんて政策をとっているのを見ると、日本の政策を任せて大丈夫なのかとつくづく不安になる。それに、どんなにお金を稼いでいても、今は世間の風向き一つでいきなりリストラに合ったりする世の中だ。他人事を決め込んで、自分が転落したときに騒いだって手遅れだと思うのだが。

『ワーキングプア』を読むと、静かに、でも確実に貧困層が日本で拡がっていることを感じる。その潮流を感じながら、明け方の新聞配達のバイクのエンジン音を聞くと、かつての自分の生活の記憶とも相まって、身震いを感じてしまうのである。



  1. 2008/03/28(金) 06:03:33|
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ペンギンとワーキングプア

ばんじょーです、こんばんは。今は千葉の実家に戻ってるんだけど、やっぱり実家は落ち着きますね、ふ〜。


以前、実習班員と話をしていたときのこと。普通に世間話をしてたんだけど、その人が振ってきた話題が
「そういえば、話は変わるけど、ばんじょーって」
ばんじょー「はい?」
班員「どのゴッドファーザーが好き?」
ばんじょー「えっ?」

うーん、さっきまでこの前の休みに家でゴロゴロしていたという話をしていた気がしたんだけど、ここでなぜゴッドファーザーが?
ばんじょー「え、えーっと、じゃあ、ロバート・デニーロかなぁ…。他の選択肢はあまりわからないんだけど」
班員「???」
も一度聞いてみると、どうやら班員は「どのことわざが好き?」と聞いてきたようで。こんな会話が成り立つ聞き間違いってあるもんなんだなぁ
。ちなみに僕の好きなことわざは「三年寝太郎」です。って、ことわざじゃなくてむしろ僕自身ですね、失礼しました。好きなのは「大器晩成」かなぁ。

そんな班員からよく聞かれたことが、「前に『ワーキングプア―日本を蝕む病(ポプラ社)』って本を買ってたでしょ。あれ、読んだの?」
僕は大学の生協でいろいろと本を注文してるんだけど、その本がおよそ医学生が読まないだろう本ばかり注文してるから、目だつんだろう。なんにせよ、気にかけてくれるのは嬉しいことですが、えへへ。以前『犯罪心理が面白いほどわかる本』なんて取り寄せたときは、クラスメートに「何それ、ばんじょーのことが書いてある本?」なんて聞かれたっけ(お返しに「君のことをもっとよく知りたくて買ったんだよ」って言い返したけど)。

で、先日『ワーキングプア』を読み終えた。日本がいかに格差社会になりつつあるか、社会の隅に押しやられた人々が救済されにくくなっているか、深く感じさせる本だと思う。貧困っていうのは、お金がないってだけじゃなくて、社会的なネットワーク網から振り落とされるってことなんだと感じさせる。

例えば、病気で倒れた父親を支えるために、大学をあきらめて病院食を作る職に就いた女の子の話。時給900円で働いて、時給を上げるために自学で調理師の免許を取ったんだけど、上がった時給が、たった10円。でもその地方では選ぶほど仕事がないし、都会に出るほどのまとまった金もない(1人暮らしをするためには、引越し代・敷金・礼金・家財を買い揃えるために何十万とかかるだろうからね)。そして、大学に行く時間もお金もなく、この仕事をやめたら次の仕事が見つかる保証もない。どこに出口があるんだろうか。

前にペンギンの生態を撮影したDVDを観たことがある。南極でペンギンが卵を抱きながら冬を越すときは、立った姿勢で何百匹と集まって寄り添って熱の放散を防ぐ。越冬の最中、輪の外側にいるペンギンが寒さにやられて死んでいく。そのシーンがクローズアップされている時に思ったのが、あぁ、輪の真ん中に入る力がなく端に追いやられた個体から死んでいくんだな。
『ワーキングプア』を読んでいて、ふとそのシーンを思い出した。目に見えるか見えないかの違いであって、社会的に力を持たない個人や集団は、地勢的にも、人間関係の繋がり的にも、共同体の辺縁に押しやられるんだと思う。そして、辺縁に行った人が、人間関係のネットワークを築き、格差社会の下層から抜け出るのがいかに難しいことか。

日々の生活の糧を得るのが精一杯の人が、教育を満足に受けることができず、仕事に追われて(仕事を探すことに追われて)貧困から抜け出るための情報を教えてくれるような人間関係を築くこともできず、そして貧困を繰り返す。これって、すごくつらいことだと思う。

政府の、もろもろの福祉政策に対する財源縮小策を見ていると、お上は「貧困層は自助努力が足りないから貧困から抜け出せないんだ」と考えてるみたいだ。でも、この「抜け出せない」感覚って、一度味わった人にしかわからないと思う。本当に、抜け出すのが難しいんだ。僕もほんの少しだけど、その感覚を味わったことがある。今でも、風呂なしですき間風が入る4畳半の部屋を思い出すと、全身の筋肉が少しこわばるのだ。

(つづく)
  1. 2008/03/19(水) 01:57:55|
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国対が終わって

最近、成海璃子に熱く萌えているばんじょーです、こんばんは。彼女はきっとツンデレです。僕の勘がそう告げています。
ちなみに、今までは宮崎あおいが好きだったんですが、堀北真希との抗争勃発の話を聞いてからは少し冷め気味です。

成海璃子は、最近封切りされた映画『ライラの冒険 黄金の羅針盤』の吹き替えをやってるとのこと。ライラと言えば、秋田では同日封切りになった『ガチ☆ボーイ』とどちらを観ようか最後まで迷ったんですが、結局『ガチ☆ボーイ』を観に行きました。映画は100本以上は観てるけど、あれほど感動した映画は初めてです。感動のあまり、涙と鼻水でずるずるになること請け合いです。

ライラについて書くのかと思いきや、あさっての方向に話が飛んでしまいましたね、ごめんなさい。


さて、先日(ってずいぶん時間がたっちゃってるけど)国対の仕事が終わりました。2/14〜2/18の間、6年生に同行して仙台に行き、国試受験のお手伝いをして来ました。例えば、医師国家試験の前日に行われる「直前講座」の資料を印刷して6年生に配る仕事があるんだけど、その資料、総量にして1万枚以上。昼の3時頃から始めてたんだけど、それらの資料を印刷して、ページ順に並べ替えて、100人近くいる6年生の部屋にそれぞれお届けして、ってやってたら、結局終わったのが24:00。その後翌日の仕事の打合せをして、解散して自分の部屋で寝るのが1:30くらい、そして翌日6:30には起床、って毎日を過ごしていました。ほんと、きつかったなぁ。最終日なんて3時間睡眠だし。

でも、あれほど充実感のある仕事は、近年なかったと思う。ほんとうに躍動感があったなぁ。
「その紙の束を持って次の部屋に行って!」
「次の部屋ってどこですか?」
「もう空き部屋がないか。じゃあ紙の束を整理する部屋を作ろう!君の部屋を急いで開けてくれる!?」
「ばんじょー、これから資料を配りに行くから、君は彼女と彼と3人組になってこれを配ってきて!」
「了解。配るための資料をすぐ作ってくるからちょっと待ってて!」

それぞれが自分の仕事をきっちりこなして、それらの仕事が齟齬なく組み合って1つの大きな仕事が出来上がるっていうのは、気持ちいいものだな、と思いました。一緒に仕事をしたみんなに感謝です(特に委員長にね。彼は一番重いところを文句も言わず支えてくれました)。
これが6年生の助けになっていたかどうか、自分たちの視点では客観的に評価することはできないけど、それでもお役に立っていて欲しいと思っています。

そして、3/1に、後輩に仕事の引継ぎをして、全ての仕事を完了。70〜80枚近いA4の資料と過去5年分の国対関連CDを後輩たちに渡して、3時間みっちり説明してきました。実習と同時平行で仕事をするのはきついかもしれないけど、きっと君たちにも返ってくるものがあるはずだから、頑張るんだよ…。


今回の国対の仕事は、2年越しの仕事だっただけに、終わった後しばらく放心状態になってました。それでブログも放置してしまっていたんだけど、国対の仕事でこれだから、国試が終わったあとなんてどんだけ放心してしまうんだろう、と今から不安です。

とりあえず、国試まで1年をきりました(なんか嫌なカウントダウンだ)…。今度は自分たちの番ということで、頑張ろうと思います。


PS1.最近スパムコメントが増えてきてるので、その対策のため、コメント時に画像認証の機能をつけさせてもらいました。書込みしてくださる方、お手数かとは思いますが、よろしくご了承ください。

PS2.「猫専用カツラ
なんか色っぽいです。
  1. 2008/03/07(金) 03:34:03|
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辛口批評!『チーム・バチスタの栄光』

先日産婦人科の先生とサシで飲んできたばんじょーです、こんばんは。
そこで今後の人生設計についてアドバイスをいただいたんだけど、さすがに「おじいさんになったときに孫が9人くらいいたほうが楽しいぞ」というのはずいぶん先の話な気がするよな〜。とりあえず、子供を産む産まないのアドバイスになるあたりが産婦人科の先生だなぁ、と思いました。

全然関係ないけど、先日の日経新聞に、ニラの卸値が上昇しているという記事が載っていた。なんでも一連の中国餃子事件で、冷凍餃子の買い控えが生じている代わりに家庭で餃子を作る傾向が強くなって、そのために餃子の材料であるニラの需要が高まっているんだとか。社会の出来事って、経済と連動してるんだな、と思わず納得。


さて、掲題について。前回もチームバチスタについて書きましたが、今回はもう少しつっこんで書きたいと思います。かなり辛口で書いてるから、映画の『チームバチスタ』が良かった、って方は読まない方がいいかも。あと、ネタバレ満載なのでご注意ください。


『チームバチスタ』は、確かに最後まで飽きずに観ることができた。でも、細かい描写が、随所で魚の小骨のようにチクチクと違和感として心に引っかかった感がある。

まず、神経内科医である主人公の田口(竹内結子)が頼りない。バチスタ手術の際に術場に入ったときに田口が人工心肺の模式図を描いてたけど、その心臓がトランプに描かれてるようなハートだったりとか、ガウンも着ずに清潔野に触れてそれに気づかなかったりとか、術中に患者さんが亡くなった後でそれにショックを受けて泣き崩れて、外科医桐生(吉川晃司)が原因究明のために田口に質問を投げかけてもひたすら「分かりません」とかぶりを振ってたりって描写を観てると、実は田口は医者ではないんじゃないか、と思ってしまう。

(心外を回った医学生は、おそらく模式図を描くときはどのチューブを上大静脈、下大静脈、大動脈弓起始部につなぐかまで細かく描写するはず。そのために、心臓はなるべく解剖学的に正確に描くはずで、ハートを描くというのはまずないだろう。次に、患者さんが亡くなったときに、泣き崩れるほどに患者さんに好意を持っているということはいいことなのかも知れないけど、そのために感情が乱れてその後の対策を取れなくなるというのは職業人としてどうかと思う)

術場看護師の大友(井川遥)も、術野でペーシングの電極を用意するときに慌て過ぎたため台の上の器械を一式床に落とすというありえないミスをする(なんで事前に電極を出しやすい位置に用意しておかないのって話だし、あげくの果てに器械一式を床に落とすなんて、実際にやった時のことなど恐ろしくて考えたくもないです)。さらに器械出しの腕の未熟さを指摘されて嘘泣きしてごまかそうとする場面に至っては、プロとしての姿勢を疑ってしまう(って学生の僕が言うのもアレだけど)。

医療関係者だから細かい点が気になってしまうのかもしれないけど、そういう細かい積み重ねが医療の世界を形成してるのも1つの事実だろう。例えば人工心肺のどのチューブをどの血管につなぐかということは、どの血流を人工心肺に潅流して酸素化して人体に戻すかということを考える上で重要になってくる(ここでつなぐ位置を間違えると諸臓器に障害をきたす恐れがある)。今回はバチスタ手術の事故死の原因を探るのが目的なんだから、人工心肺のトラブルも視野に入れて考えるべきで、その検証のために正確な図を描く必要があるはずだろう。また、清潔野に触れた触れないを気にするのも、術後の感染症の原因となる可能性があるからであって、何も伝統とか儀式で触れないとかいう話ではない(実際は触れたからって感染症に直結するわけでもないとは思うけど…)。

このように、表層の事象には、それを形成するなんらかの理由があると思う。それを顧みることなしに病院という世界を描写しても、どこかチグハグな印象を観る者に与えてしまうんじゃないだろうか。
そういった細かな事象の解読作業を行わないことが、より大きな事象の解読の見落としにつながる可能性がある。例えば、桐生の眼の疾患(両眼の下半側視野欠損)がどの疾患や傷害に付随して生じうるのかってことや(あまりに発生率の低い疾患に付随するようなら、現実性が薄れてしまう)、高濃度の麻酔薬を硬膜内に注入したときに本当に気化して周囲組織を圧排するのか、っていう根っこの部分の検証について(自分が勉強不足な可能性が大いにあるから、あまり大きな声で指摘できないけど。もしご存知の方がいれば教えてもらえると嬉しいです)、この2点は原作と大きく変更されている部分なんだけど、もしそれらが現実に起こりにくいとしたら、この映画は医療SFという扱いになってしまうんじゃないか。


ここまで細かい指摘をするのは、何も僕が医学生だからってだけではない。原作が、それだけ細かい設定の上に作られていると思うからなんだよね。
原作では、田口はグチ外来(不定愁訴外来)の担当医という設定なんだけど、そこで行うカウンセリング(と言っていいのかしら)は、かなり高度なテクニックを用いているものと推測できる。原作で、病院での治療に不満を持った患者さんからその不満を聞きだすときに、3回目に患者さんから話しを切り出すまで、田口からは何も切り出さず、ひたすら同じ空間で同じ距離を保ちながら診療時間を過ごすという下りがあるんだけど、これは一朝一夕で身につく姿勢ではないと思う。だって、無言で1時間、出会ったばかりの人と2人切りで過ごすって、普通の人に耐えられるだろうか?そこで自分から話を切り出すとき、自分の不安に負けたからであって、相手の気持ちを慮るってことは案外少ないんじゃないだろうか。それを、相手が黙っていたいという気持ちを尊重できるっていう(まさにロジャーズの言うところの傾聴という技術)のは、田口がそれなりのキャリアを積んできたという証だろう。そのような相手を受容するコミュニケーションを、原作ではパッシブ・ヒアリングと定義している(と思う)。

ところが映画では、問題解決のために病院長から依頼を受けてやって来た厚生省技官の白鳥(阿部寛)に、パッシブ・ヒアリングを"ただ話を聞いているだけで、誰でもできること"と切り捨てさせてしまっている。原作ではこのパッシブ・ヒアリングを主要人物に行うことによってこそ、各人物が田口を信頼して自分を彼の前にさらけ出し、そして彼らの人となりを生き生きと描写する効果を出しているというのに(だからこそ、原作での白鳥は、田口のパッシブヒアリングの技術を高く評価しています。ちなみに、白鳥がパッシブ・ヒアリングを評して「柔らかい繭で相手を包んでゲロらせる」と言っているんだけど、その繭がまさに原作でのグチ外来の田口の診察室なんだと思われる。だから田口のパッシブ・ヒアリングの時は診察室に主要人物を呼んでヒアリングを行い、白鳥がアクティブ・ヒアリングを行うときは相手のフィールドに攻め込むという対比が鮮やかに映るってわけで、映画で田口がパッシブ・ヒアリングを行うときに相手のフィールドにいきなり踏み込んでいるのを観ると、原作の理論を検証してないんだろうなぁって思わざるをえない)。

ちなみに、アクティブ・ヒアリングは論理的に相手の矛盾点を突くことで、危機に相対したときの相手の対応を見るテクニックなんじゃないかと思うんだけど、原作での定義は僕も自信がない(僕もアクティブ・ヒアリングは苦手なもので…)。アクティブ・ヒアリングには、相手の普段は表に出ない性格を表出させる効果や、相手の問題点を浮き彫りにして組織人として相手のあり方を正すという効果があるんじゃないかと思うんだけど、それでもアクティブ・ヒアリングの問題点として、築き上げてきた人間関係が崩れて険悪になる可能性があるからだと思う。それが、病院の内部の人間である田口がアクティブ・ヒアリングに踏み込めない理由(多分)であり(原作では、だからこそ白鳥が"田口先生に勇気があれば一歩抜け出せるのに…"と評していたんだと思う)、そういう背景を抜きに、映画で白鳥がアクティブ・ヒアリングの利点だけを得意げに語っているのを観ると、どうにも合点がいかないのである。

とまぁ、原作の完成度と映画のそれとの比較や、原作との整合性を持ち出すとどうにも詰めが甘い部分が目立って、黙っちゃいられない点が多々噴出するわけだが、逆の発想をすれば、原作を読まずに、医療コメディミステリー仕立てという位置づけで映画を観れば、十分に楽しめる映画だと思う。阿部寛の怪演と竹内結子の癒し系の演技の組み合わせは観ているものを飽きさせないし、犯人の巧妙なトリックを暴くまでの2人のやりとりはテンポが良く、2時間近くの時間もあっという間に過ぎるだろう。原作のような完成度を求めず、細かな設定の食い違いなど気にしなければ、充分にお勧めできる一本だと思うのだ。


今日から国試のため6年生に同行して仙台入り。しばらくブログを更新できないかもしれないけど、ご容赦ください。では、行ってきま〜す。
  1. 2008/02/14(木) 02:21:44|
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